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人魚歳時記 葉月 前半(8月1日~15日)
1日
曲がりくねる道沿いにある家のブロック塀に、先週からずっと蝉の抜け殻がくっついている。その間、大雨が降ったりしたけれど、綺麗なままくっついている。
今朝、指折り数えて、ここから抜け出た蝉は、もう命を燃焼し終えていることに気づいた。
2日
百日紅が満開。
二階の窓から眺めると、桃色の花が、緑の中に泡のように膨らんでいるよう。
木の下には、その花がたくさん落ちていて、つい掌いっぱい拾ってしまう。
お椀にした手の中で、くしゅりと縮れる桃色は、子供の頃、浴衣に巻いた三尺帯の端っこにそっくりだ。
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3日
「花盗み人は罪にならないの」
そう教えてくれたのは、かつての級友で、
彼女は見知らぬ家に咲いていた花をそっと手折り、
野良猫の骸に手向けていた。
去年、廃屋の鉄柵に美しい花を見つけ、種を数粒、勝手にいただいた。
なので今、空色の朝顔の鉢に、毎朝水を注いでいる。
4日
快晴の朝、青いんぼの向こうに、丸いピンクが滑るように移動している。
傘だった。
日差しが強いので、雨用の傘をさして老婆が散歩。腰を曲げているから姿がすっかり隠れ、脚しか見えない。
傘が二足歩行しているよう。
「おはようございます」
近づくと、傘の中から声がした。
5日
棲家を壊された怒りなのか、メダカに餌を与えていると、どこかに潜んでいた残党が飛んでくる。
相手が雀蜂では逃げるしかない。
でも睡蓮鉢の縁に掴まり、お尻を突き上げて、炎天下のなか懸命に水を飲んでいる姿には、哀れみと愛しささえ覚える。
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6日
トカゲや蛙の住み処を奪うからと言い訳して、草むしりをさぼっていたらジャングルに。
名前も忘れたハーブを刈ると、チューイングガムみたいな香りが飛び散る。
小さな生き物が慌てて逃げていく。
清々とした庭に蝉時雨が降り注ぐ。今年の今日は平和だと思う。急に少し哀しい。
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7日
今朝は犬の散歩で、その方と久しぶりに会った。
挨拶されて初めて気付いた。会話をすれば以前と変わらず快活だが、それにしても老けたなぁ、とつくづく思う。
が、道路脇のカーブミラーをふと見上げると、そこに映る私も大概だった。
時間は平等に流れているとつくづく思う。
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8日
畑の一隅に、菊がたくさん咲いている。
傾いた長い茎を、ビニール紐でくくられて、行儀よく立たせられている。
来週は、お盆。
還ってくる先祖に供えるため、それまで大切に育てられている菊の花。
畑の土は肥沃で乾いている。
蝉の声がシンシン降り注いでいる。
9日
風景が変わっている。
神社に通じる細道の傍らにあった雑木林が伐採されていた。
蔦を絡ませた青葉が光の加減で大きな顔に見えたりして、眺めるのが好きだったのに。
道の横に続く菜園の、今が盛りと絡み合うミニトマトの茎や葉のアラベスク模様が、寂しさを紛らわしてくれた。
10日
柿が落ちていた。もちろん、まだ青い。
見渡すと、細い道を挟んで向かいが空き家。その庭に柿の木がある。
つまむと、青い実は石のように固い。
道の端に転がして、また歩きだす。
振り返ると、ギンヤンマが飛んできて、青い実に止まった。
11日
炎暑の中、古い家はどこも庭木の剪定や草むしりに熱心で、草刈り機のモーターや鋏の音が賑やかだったのに、一転して、今日は森閑としている。
帰省する親族と、祖霊たちの到着を待ちわびて、皆が家の中で息を潜めている。
外にはまだ誰の姿もなく、蝉の声ばかり響いている。
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12日
青々とした稲に挟まれた長い道を、老人車を押したお婆さんが歩いて行く。昇ったばかりの朝日が前方にあって、お婆さんはその中に向かっているように見えた。
老人なので歩みは遅い。
私と犬はすぐにでも追い越せたが、今朝はゆっくり歩いて、いつまでも、その後を歩いた。
13日
お盆で宅配便が不確実だからと、先方が車で最寄り駅まで届けに来た。
連絡をもらい、自転車で向かう。暑さと多忙を理由に籠りがちだったから、昼の眩しさと気持ち良さに驚く。
ペダルを漕いで、緑の田園地帯を突っ切りながら、夏が幸福な季節だったことを思い出していた。
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14日いつもは暗い奧座敷に、今夜は灯籠が灯っている。明りが庭に漏れて、丸く刈った躑躅が淡く浮かび上がっている。座敷に視線を戻すと、いるはずのない人が仏壇の前に座っている錯覚。空には朧月。秋の虫が鳴いている。この雰囲気いいなと、立ち止まり、じっとお盆を感じた。
15日
ミシンを踏んでいたら、黒い蝶が入ってきて、どんなに払ってもまとわりつくの。
そうしたら電報が来て。兄さんが戦死したって。だから、あの蝶はきっと――
祖母からこの話を聞いてから、命日とか、お盆の頃、傍らに虫が来ると、これは誰かの魂だと思うようになった。
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