小川哲「革命前夜」
"「新潮」全部読む"のマイ企画で読み進める中で、一番分かりやすかった。
本を読んでると、何を読んでるか途中でわからなくなるときがあって、数ページ前から読み直す。けっこうあることだ。書いてあることから連想が飛んだり、自分の過去のことを思い返したり、全然違うことを空想したりする。そんな時は、あー、やべやべと思い、気持ちを立て直して本に帰っていくのだが、、。
本作では、そう言うことは一切なかった。綺麗に物語に取り込まれ、しっかり主人公に共感し、納得して「了」まで読んだ。書いてあること、その通りだと思う。なんの不満もない。面白かった。
小説は、崩壊した学級を若い先生が担当し、見事立て直すというものだ。彼は問題児以外の生徒を大切にすることから始め、クラスで褒め合い感謝し合うシステムを作りあげる。生徒はそれに感化され、やがて教室は偽善と思惑の蔓延る宗教集団のようになっていく。作者は教室に馴染めず卒業して、長じて作家となり、直木賞を受賞する。そのお祝いの電報が、先生から届き、当時を思いだす、というものだ。
教育書とかに、クラスの作り方みたいな本がある。小説の参考にと、覗いたことがある。大概が、感謝と思いやりに満ちた集団づくりができればそれでよしと、その後のことを書いてない。ほんとの地獄はそこから始まるのに。
この小説はそこまで書いてある。流石の作家の眼力である。あ、いや、いや待てよ。これって、、、と、ふと思う。
1、世が乱れる。暴力で支配されている。
2、救世主が現れる。愛を説く。
3、あるキッカケで、一番の乱暴者が救世主の側につく。
3、堰を切ったように、皆、救世主の元へいく。
4、愛と正義の世界が生まれる。
5、やがて愛と正義は見えない義務となり、偽善が蔓延り、人々の自由をうばう。
6、人々はそれに気づかず、自滅していく。
私もこんなクラスにいたことがある。小学校6年の時だった。その一年は正しいことしか言えず正しいことしかしてはいけなかった。辛い泣きたくなるよな一年だった。しかもその当時は、なぜ自分がこんなに苦しいのかわからなかった。こんなに毎日正しいことをしているのに。
その物語の中にいた癖に、だからこの物語に没入できた癖に、大人となった私は、やはりこの小説に不満なのだ。
この物語、読んだことあるぞ、と。
「華氏451度」
「1984」
「動物農場」
なんかは、この物語の変奏曲じゃなかろうか。
ユートピアからディストビアへ向かう物語。もしくは、変わってしまった物語。
スターリン主義を経験し知ってしまった私たちは、この物語をナイーブさそのままに賞賛するわけにはいかないんじゃなかろうか。ありていに言えば、
筋、同んなじじゃないか。
私は通俗小説を愛するものである。通俗小説・大衆小説は、同じ物語を何度も衣装を着せ替えて、語り続ける。私も書くから、それでよい。
時代にあった、一番切実な形で物語を届ける。だから繰り返えされてよい。それが時代小説であってもSFであっても、ミステリーであっても、ラノベであっても、それは構わない。今生きている人間が今の感性で、あらかじめある物語を辿ることに意味があるからだ。
だが。純文学は違うように思ってしまう。そこでは違うものが読みたい。
私がマイ企画を「新潮」で始めた訳はここにある。「オール読物」でも「小説現代」でも「小説新潮」でも「小説すばる」でもない。(言っとくが、これはこれで面白い。)
今の私は、従来にないものを読みたいのである。従来にない表現、逸脱した物語、簡単に言えばヘンテコなものを読んで刺激を受けたいのである。だから「新潮」なのだ。「小説新潮」に、この小説が載ってるのなら、1ミリだって文句は言わない。
作者は小説の枕に直木賞をとったことを書いている。そうです。この小説は直木賞作家の小説です。
色分けすんな。面白いだろ、この小説!
そんな言葉が聞こえてきます。その通りなんですが。やっぱり私の今求めてるものとは違う。蕎麦屋に入ったのにハンバーガーだされたみたいな。しつこいようですが、このハンバーガーは、とびきり美味いんですよ。
題名は「革命前夜」です。この小説で唯一引っかかったのが題名でした。「革命前夜」て、今から革命が起きるんでしょうか。でも、もう卒業しちゃったのに? 誰が起こすんでしょうか? 自分たちの後の世代が革命が起こしてくれると言うんでしょうか? 読み取れない。
あ、わかった。
この先生はいま市会議員です。ゆくゆくは国政に出ていく意欲がある。かれが国政に行って力を持ったら、愛と正義の時代が始まる。そう言いたかったのかしら。
なるほど。もしそうなら、先生はまだ生身であるな。もっとモンスターでないと、その感じにはならないけど。どうだろう。
なんかないものねだりみたいなことをぐだぐだ書いてしまった。なんか偉そうになってしまった。
反省する。