【短篇小説】幽霊
どんなに深く結ばれていても、時間が経つにつれ、去っていった者への思いは淡くなり、あると信じていた絆もゆるんでいく。そして、全ては忘却の海に沈められる。
妻の真世が亡くなって、もう半年になる。時がたてば、その悲しみも薄まるものと思っていた。薄まることを期待していたわけではない。亡くなった当初は、この痛みをずっと覚えていよう、忘れまいと誓ったぐらいだ。
しかし、生きている人間には生活がある。私は働かなければならないし、周りの人間ともうまく付き合っていかなければならない。私は相手に余計な気遣いをさせたくはなかった。腫れ物に触るようだったり、「死」とか「病気」とか特定の言葉を避けるように気を使わせたり、そうさせることが嫌だった。
人にはそれぞれの人生がある。私の近くにいる人も、気兼ねなく、その人生を歩んでほしかった。そうして、人々の記憶から真世が薄れていった頃、自分も真世を忘れてしまうのだろうと漠然と考えていた。
けれど、そうはならなかった。日を重ねても、私は真世を忘れなかった。なぜって、実際に、真世は私の側にいつもいたから。
姿を見せるわけではない。リビングで本を読んでいると、ふと、後ろに真世の気配がする。振り返ると、誰もいない。気のせいかと、読書を続けると、また気配がする。お茶を淹れましょうか。今にも馴染んだ声が聞こえそうな気がする。その気配を感じたのは、葬儀が終わって三日目のことだった。
それから気配はずっと続いた。初七日が過ぎ、四九日を迎えても、気配は消えなかった。風呂に入っていると、扉のすぐ向こうに真世の気配がした。夜、ベッドに入れば、部屋の隅に姿の見えない真世がいる。
「おいおい、四九日も過ぎたんだぞ。そろそろ仏になれよ」
実際に声をかけたこともある。
「俺はもう大丈夫だからさ」
気配は消えなかった。けれどそれは嫌なものではなかった。むしろ懐かしい、甘やかなものだった。気配がある方が心も休まった。喪失感に苦しめられることもなく、孤独感に陥ることもなく、部屋は二人だけの落ち着いた空気に満たされた。私たちに子供はいなかった。
独り言のように、真世に話しかけることが多くなった。今日、会社であったこと。晩飯の魚を焦がしたこと。ゴミを出し忘れたこと。たわいもないこと。思い出話もよくした。初めてのデートのこと。二人で行った旅行のこと。子供ができずに悩んで病院に相談したこと。二人で生きていくと決めたこと。話すことはいくらでもあった。私はくつろいで酒を飲み、喋りながらしんみりしたり笑ったりした。それが当たり前の日常になった。
ある日曜日の昼過ぎだった。妹が私のマンションを訪ねてきた。
「こんなとこに来て大丈夫なのか」
「大丈夫って」
「あるだろう。子供の世話とか」
「太郎は部活。別に泊まっていきやしないわよ。どうしてるか心配じゃない。様子、見に来ただけよ。元気そうで安心した。ちょっと痩せた?」
「そうかな。ちゃんと食べてるし、掃除も洗濯もやってるよ」
「そう。あと、義姉さんのもの、どうするか考えてる」
「何だ、形見わけか。いるもんがあったら持っていってもいいぞ」
「何言ってんのよ。本気で言ってんの」
「いや、言い方が悪かった。お前が使うなら真世も喜ぶと思って」
「そういう話じゃないの。いい、まだ兄さんも、気持ちのふんぎりがつかないだろうから、すぐにとは言わないけど、義姉さんのもの、整理する時は声かけてよね。女手があったほうがいいでしょ」
「ああ、その時はよろしく」
「晩御飯作ってくわ」
「いいよ。自分でできる。最近、作るのが楽しいんだ」
「そんなこと言って、ほんとにちゃんと食べてるの? ぜったい痩せたわよ。いいから任せなさい。どれどれ」
と冷蔵庫を覗く。
「一通りあるわね。明日も食べれるから、カレーにしよっか」
「じゃ、まかすよ」
妹と話している間、ずっと真世はそばにいてくれた。妹にはその気配は分からない。妹に知られず二人だけの秘密を保持してるようで、くすぐったいような楽しさだった。
「じゃ、その前に、義姉さんにご挨拶ご挨拶」
と位牌に線香をあげようとする。止めようと声をかけそうになったが、あまりに不自然なので、かろうじて思いとどめた。
「あれ? ちゃんとお線香あげてる?」
「なにが」
「前来た時から、お線香ぜんぜん減ってないじゃない」
「気のせいだろ? あげてるよ」
嘘だった。真世がすぐ側にいてくれるのに、線香はあげられなかった。あげてしまって真世がいなくなってしまうことの方が怖かった。
そうかなあ、と言いながら線香に火をつけようとする妹の手元を見ていた。蝋燭を点け、線香を炎をかざそうとする。
「よしてくれ」自制が効かなくなった。
「え、何か言った」
「線香なんか、あげないでくれ」声が震えている。
妹の手が止まる。
「えっ。ごめんなさい。義姉さんのもの整理するとか。そんなつもりじゃーー」
妹は誤解している。誤解させたままでも、線香をあげることはやめて欲しかった。
「まだ、半年だもんね。悪かったわ」
妹は火のついてない線香を蝋燭の隣に置いた。
「カレー、作るね」
そう言って私の顔を見た妹は目を見開く。
「兄さん! どうしたの、顔が真っ青よ!」
えっ、と思った瞬間、顔からすうっと血が降りていくのが分かった。そして、目の前が真っ暗になった。
目が覚めた時、私は病院のベッドにいた。左腕から点滴の管が伸びている。一度、頭がズキリとしたが、頭痛は続かなかった。
側に妹が座っている。
「ビックリしたわよ。貧血だって。やっぱり食べてないんじゃない」
「お前、家の方は」
「帰れるわけないじゃない。家には連絡入れたわ。太郎も中学生だし、ご心配なく。なんか食ってるわよ。旦那は出張でいないし」
「迷惑かけたな」
「いいのよ。どこも悪くないみたいだから、明日には退院できるそうよ」
「そうか」
「明日、会社に連絡しようか」
「いや、自分でできる」
「そう」
妹がナースコールのボタンを押す。
「目が覚めたら教えてくれって」
天井を見る。視線はそのままで、気配を探していた。病室のどこにも真世はいなかった。
「また叱られちゃうかもしれないけど、義姉さんのこと、ストレスになってない?」
「ストレス?」
「言い方よく分かんないから、ぶっちゃけて言うわね。まだ、義姉さんのことから、立ち直れてないんでしょ。そんな痩せちゃって」
「痩せたかな」
「痩せたわよ。お節介だと思ったけど、この病院の心療内科の先生、友達だったわよね」
医者は高校時代からの友人だった。社会人になっても、時々飲む間柄で、子供ができなくて悩んでいる時、相談に乗ってくれた。というか診療を受けた。あれで私たちは随分救われ、二人で生きていく決心もついた。そのことは妹も知っている。
「予約、取っといたから。ここを出たら受診して」
「お節介だな」
「お節介よ。また、倒れられちゃ堪んないもの。こっちは家庭がある身なの」
「お袋は?」
「さっきまでいたけど、遅くなるから帰ってもらったわ。退院したら電話しといてよ。心配してたから」
「今、何時だ」
「9時。あ、すいません。目が覚めました」
やってきた看護師と妹が喋っている。私はもう一度、真世を探した。やはり、真世はいなかった。
医者 久しぶりだな。
私 葬式以来か。真世の生前は世話になった。
医者 よせよ。仕事だ。
私 あの時は随分救われたよ。俺も真世も前向きになれた。
医者 どうだ、辛いのか。
私 いや、それが辛くはないんだ。
医者 分からんな。妹さんも心配してる。
私 笑わないで聞いてくれるか。
医者 勿論。それが俺の仕事だ。
私 誰かに話したかったんだ。冷静に考えれば、こんな馬鹿な話はない。だけど、今、俺はそれを受け入れてる。
医者に一切を語った。その間ずっと探っていたが、診療室に真世の気配はなかった。
医者 なるほどな。
私 ナンセンスな話さ。お前だから話せた。俺はどうかしてるのかな。
医者 どうかな。じゃ、今度は俺の話を聞いてくれ。幻肢痛の話だ。
私 ゲンシツウ?
医者 事故で手足を失った人が、その失った手足に痛みを覚えることを幻肢痛と言う。障害を負った人の50%から80%に現れる。
私 じゃ、手足をなくした人の殆どの人が経験するわけか。しかし、ないのに痛むって、なんかむごいな。時間が経てば痛みは治まるのか?
医者 多分脳が手足を失ったことに納得してないから起こるんだろう。だから、時間が経てば痛みは治まる。だいたいはね。
私 だいたいって?
医者 中には、なかなか治まらない患者もいるし、痛みが酷い患者もいる。
私 そういう患者はどうするんだ。
医者 ひとつは薬で緩和する。でも、もともと痛みの原因とする場所が失われているわけだから、対症療法だ。もうひとつは、逆に失われた手足をあるかのように意識させる。例えば鏡に正常な手を映して指を曲げる。それに合わせて、失われた手の指を曲げることを意識させる。失われた手もうまくコントロールできてると脳に誤解させるんだよ
私 それで痛みが和らぐのか。
医者 和らぐ場合も多い。で、そういう現場を見ていると、時々思うんだ。自分はどっちかなって。
私 どっち?
医者 自分は失われたものをだんだんに忘れていける人間か、それとも失われたものに痛みを感じ続ける人間か。
私 ・・・
医者 お前の痛みが真世さんを呼んだんだよ。
私 どうすればいい?
医者 どうにも。
私 どうにもできない?
医者 どうにもできないし、する必要もない。強いて言うなら、ちゃんと飯を食うことだ。妹さんが心配する。
私 何もしなくていいのか。
医者 お前の痛みが真世さんを必要とする限り、真世さんはいてくれるさ。線香なんて関係ない。そして痛みが和らげば、お前が真世さんの死をきちんと受け止められるようになれば、真世さんはもう来ないだろう。
私 それでいいのか。
医者 いいさ。しかし、羨ましいな。死んだ後でも、いい奥さんだ。
私 幻なんだろ。
医者 お前は理屈屋だから、幻肢痛の話をした。わかったら、その話は忘れろ。真世さんが来てくれている。それでいいだろ。
私 そうだな。それでいい。
医者 ただし、俺以外に真世さんのことをべらべら喋らないほうがいいぞ。
私 そうだな。
医者 世の中、お前が思っている以上に幽霊好きが多いからな。
二人で笑った。真世も私のすぐ後ろに立って微笑んでいた。
了
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