小説精読 少年の日の思い出6
エーミールはコムラサキという蝶に20ペニヒという値段をつけるわけだが、ぼくもエーミールの蝶に値段をつけている。エーミールがクジャクヤママユを蛹からかえしたという話が、今、ぼくの友人が100万マルクの遺産を受け取ったと聞くよりも衝撃的だった、と言う。「今」とはいつか。無論、社会的成功を成し遂げ、友人の別荘でくつろぎ、思い出話を披露している「今」だ。大人になった僕は、その衝撃の度合いを金で表現する。少年のぼくは、コムラサキが20ペニヒと言われて、たぶん戸惑っただろう。たぶん金銭的な価値観で蝶の値打ちを考える価値観は、少年時代のぼくには、ない。好きだから好きなだけだ。だから、足欠けていようが、触角が伸びていようが、気にはならない。言われて初めてきづく。いや、気づいてはいたが、それを大したこととは考えない。金銭的、社会的価値観がぼくにはないからだ。言われて初めて、その欠陥が、金銭的、社会的価値として、マイナスであることを教えられる。教えられて、傷つく。傷つく? 傷ついたのか。私は、ここが、ぼくの限界だったと思う。傷ついてしまったから、ぼくはぼくの創造の翼を自ら折ってしまったのだ。なぜ、足が欠けていることが、そんなに重要なのか。そう思えなかったぼくは、所詮、湖畔の別荘で葉巻をくゆらす友人に、自分の幼い日の失敗を悔恨を込めて語る人間にしかなれない。ぼくは社会的成功をおさめたハイソな人間かもしれないが、見方を変えれば、極めて、極めて俗物な人間だ。言い替えるなら、ぼくの成功とはエーミールになることだった。話すことも恥ずかしいこと、と客(ぼく)は言う。恥ずかしいこととは何か。それは人の蝶を盗んで壊したことか。少なくとも、私(潮田)は、そうは思わない。語るも恥ずかしいこととは、自分がエーミールになってしまった、ということではないか。エーミール的価値観にひれ伏してしまったことではないか。好きだから好きという、自らの価値観を捨て、凡庸な、たとえ社会的に成功したとしても、凡庸な人生を生きてしまった、自分の人生への評価ではなかったか。
まぁ、そんなふうに、アタクシは読みましたな。
では、今日は、このへんで。
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