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ゲゲゲの鬼太郎

私の兄が好きだった。私の長男も異様に好きだった。好きすぎて、婆ちゃんにねだって"ちゃんちゃんこ"を編んでもらい、誕生日のプレゼントに、私に下駄をねだった。紙切れをセロテープで片目に貼り付け、"ちゃんちゃんこ"を着て、意気揚々と下駄を履いて遊びにでた。気味悪がって、他の子は近づいてこなかった。妖怪の絵も何枚も何枚も何枚も描き、描き続け、コマ割りで漫画を描くことを覚え、インクとGペンで描くようになり、やがて絵画に目覚め、今、美大に通っている。美大! もうまともな人生は歩めないかもしれない。全ては水木しげるのせいである。小学校低学年の時、彼は私に年賀状をねだった。一枚やると、表書きに"しげるさんへ"と書いた。水木しげるが亡くなった時、「死んじゃったねえ」と言うと、ひどく怒った口調で、「そのことは、もうぼくのまえで、ぜったいいわないで!」と叱られた。じゃあ、怪奇もの全般が好きかというと、そうでもなくて、遊園地のお化け屋敷などは大嫌いだった。一度騙して、豊島園のお化け屋敷に連れ込んだら、怒って一日、口をきいてくれなかった。
思い返せば兄もそうだった。兄は来る日も来る日も広告の裏に鬼太郎を描いていた。やはり鬼太郎以外の怪奇ものは嫌いで、私は「怪奇大作戦」が見たかったのだが、断固拒否されて見ることができなかった。一度見せてほしいと懇願したが、「したいが うごくんでよ。したいが」と恐怖に慄いた顔をして、私を黙らせた。
 私は別に「ゲゲゲの鬼太郎」が嫌いなわけではないので、アニメも普通に見た。コアなファンが年代をおいて二人いたので、いつのまにか妖怪にも詳しくなっていった。目玉のオヤジが、鬼太郎の目でないことは、もう小学校の時、知っていた。鬼太郎誕生秘話の漫画を兄が持っていたからである。子供がねだるので「墓場鬼太郎」のアニメまで一緒に見て、本来鬼太郎はそんないい奴でもなかった、と知った。
兄はもうジジイだから鬼太郎は卒業した。長男は、原作にないかわい子ちゃんがアニメに出だしたり、ネコ娘がかわい子ちゃんになったりしてから見なくなった。「お前、かわい子ちゃんは嫌いなのか」と一度訊いてみると、「こんなの鬼太郎じゃない」と言った。
 「ゲゲゲの鬼太郎」は、もともと紙芝居の「ハカバキタロー」が初めで、作者の許可を得て、水木しげるが貸本で描き継いだのだという。だから、水木しげるとは別の作者の「鬼太郎」もあるらしい。ゲゲゲとついたのは、「墓場鬼太郎」では、子供ウケが良くないだろうという、少年マガジン編集部の意見によるのだという。水木しげるは小さい頃、自分の名の「しげる」が言えず、自分のことを「ゲゲル」と言ってたらしい。「しげるの鬼太郎」が、「ゲゲルの鬼太郎」を通って「ゲゲゲの鬼太郎」となったらしい。なお、ネズミ男の正式名称は「ビビビのネズミ男」と言うらしいが、由来は知らない。
 司馬遼太郎は日本人が考える坂本龍馬のイメージを作り上げた。もはや何人もそのイメージから逃れることはできない。同様に、水木しげるは日本人がイメージする妖怪の殆ど全てを作り上げたと言っていい。"砂かけババア"といえば、私たちは水木の描いたあの絵を思い出すし、"子泣き爺"も"小豆洗い"も"いったん木綿"も"やまびこ"も、全部水木のあの絵を思い出す。これは、すごいことだと思う。
 今思い出した。高知に行った時、UFOキャッチャーで"ぬりかべ"のぬいぐるみをゲットした。長男は大喜びであった。大喜びであったくせに、高知空港の待合所にそれを忘れてきた。東京で気づいた長男は大泣きであった。仕方ないので高知空港に電話した。
「待合所に忘れ物をしたんですが」
「はい。どのような」
「ぬいぐるみです」
「どのような」
「ぬりかべです」
「ぬりかべ」
「はい。ぬりかべです。ご存じですか。ぬりかべ?」
「はい。ぬりかべでしたら、よく存じております」
"ぬりかべ"は無事発見され、着払いで送ってもらった。
"ぬりかべ"の一言で、年齢も男女の違いも、全て超えてビジュアルを共有できる。
なんて素晴らしいことなんだろう! ビバ、水木しげる。

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