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古川真人「昇り降り」

 なんだか、「日本昔話」みたいな話だった。鬼とか妖怪とかお化けを、人間の知恵の力でやっつける、アレである。

 主人公は目が見えない。もともと片方は見えず片方は弱視であったが、残った目も網膜剥離を起こして手術する。しかし手術は失敗し、主人公は失明する。それが二十年前の中学の時である。
 主人公は不機嫌さと退屈を紛らわすために、ラジカセを買ってもらう。
 ある日の夜、"あれ"がやってくる。"あれ"は、主人公の気持ちを逆撫ですることや不安を煽るようなことを言う。正体はわからない。
 主人公は不眠に苛まれる。五日目に母が杖をもってくる。十日後には退院で、それからは自分で歩かなければならないからだ。
 そこで主人公はあることを思いつく。夜な夜な現れる"あれ"を、杖とラジカセを使って撃退する方法を。
 まあ、見事撃退するわけだが、そのこともあるので、二十年たってもラジカセは捨てられないでいる。そのラジカセは、スイッチも入れてないのに、今も時折音が鳴る。

 どこかで夢の話じゃないぞ、と断ってあるので夢ではない。だから本当の話である。昔話の不思議も、昔の人は本当と受け入れて暮らしていた。科学的であるとかないとか、そういうことではないのである。
 例えば、風邪は悪いウィルスが体に入って起こると我々は知っている。でも我々の中にウィルスを直接見た者はいない。医者がそういうから、そうかと信じているだけだ。それは、風邪はモノノケが体に入って起こる、と解説されることと、どう違うというのか。同じである。

 この前、家にいる時、テレビがいきなり映った。なんにも触ってないのに、いきなりついた。
 あなたなら、どう受け止めますか。
1、電波が混線した。
2、霊がつけた。
3、そんなこともあるだろうと、深く考えない。

 主人公は今から失明という、とんでもなく理不尽なことを受け入れなければならない。それを受け入れさすために、心がなにかしらの操作をしても不思議ではないはずだ。
 不思議といえば、世の中全てのことは全て科学的に認知されている、基本的に不思議などない、という立場をとる人がいるが、それは全く馬鹿げている。
 世の中に分からないことはある。まだ腐るほどある。だいたい科学は分からないことの言い訳のためにあるのではない。その解明のためにあるのである。科学的でないことが起こったら、その事象を否定するのではなく、肯定し解明を目指すのが科学である。

 さて、テレビの件だが、私はどう考えたか。私は考えなかった。丸ごと受け入れた。テレビが勝手についた時も、ビックリしたが、まあ、そんなこともあるだろうと思った。いきなりついたから驚いたのである。テレビがついたこと自体にはあまり驚かなかったのだ。理由はわからない。長く生きていると、そういうこともあるだろうと思う。私はそういう人間である。

 だから、この小説も「そうか」と思い納得した。

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