町屋良平「私の批評」
ほら、ほらやっぱり。やっぱり私の手には余る。たまたま本をとって読んでしまったのなら、多分確実にスルーする。私如きが何か言うべき作品ではない。でも、まあ、マイ企画なんでできるだけ解読してみる。多分素っ頓狂なものになる。予め言っておく。
この作品は、たぶん、ホントウノコトを書きたい小説家の思考の遍歴だ。
この作家は多分物語はホントウノコトを書いたものではないと思っている。フィクションは嘘だ、と。じゃ、ホントウノコトを書くとしたら何を書けばいいのかというと、「私」である。だから、私の家族、ほかに類のないような私の家族のことから書きはじめる。私は母に虐待されて育ち、母は母の母(祖母)に虐待されて育った、と。
ある日、私は母に喜寿のお祝いにどこ行きたい?と訊く。母は「回転寿司に行きたい」と言う。私はその答えを、予め用意された言葉と感じる。「私小説」なんだから、多分事実なんだろう。事実、母はそう言ったはずだ。なのに私はこう感じる。
私はすっかり二流小説の登場人物になった。
母が言ったのはホントウノコトなのに、その言葉はホントウノコトではないのだ。「まるで小説家がこれから書く小説の一文目」のように予めひらめいて用意された言葉なのだ。
ここからこの小説は異様な展開を見せていく。
十一歳でデビューし二十八年間十一歳のままの詩人の詩が挟まる。毒親だった母への愛憎を描き続ける漫画家のことが紹介される。私はそれらから「なんとなくかなしい救われ」を感じる。
似た境遇に育った私は、インターネットで「毒親」を引き、「毒親育ちの人の特徴」を見て母にそっくりだと思う。私は母に「あなたは母親からホントにひどいことをされていた」と告げる。母はその時、ただボーっと聞いていたが、次に会った時、「私はお婆ちゃんからひどいことをされていた」と、さも自分の意思から出たように言う。虐待は母にとってホントウノコトになる。いや、これはホントウノコトなのか。私が私の家族を私小説として書く時、それはホントウノコトなのか。
十一歳の詩人はかつて名の知られた詩人の別名義だった。彼は亡くした子供の年齢に留まり詩を発表し続けていた。詩人の言葉を私はホントウノコトと受け止め、癒される。なのに、彼の存在はホントウノコトではない。
ある夜、私は悪夢を見る。夢の中で母が死ぬ。それは明晰夢で、私はそれを夢と知っていながら悲しむ。夢と現実の間の中に私はいて、目覚めると、私は小説を忘れていた。これはきっと小説における現実とフィクションの問題を言ってるのだろう。
フィクションに「私」を簡単に開け渡してしまう人がいる。それで救われる人も確かにいる。だがフィクションはホントウノコトではない。いったいどこまでが「私」で、どこまでが演技する「私」、つまりフィクショナルな「私」であるのか。ホントウノコトを書くはずの「私小説」でさえ難しい。いったい小説におけるリアリズムとは何か。何をどう書けば、ホントウノコトになるのか。
ここで作者はオクタピオ・パスの言葉を引きながら主張する。
ーー小説におけるリアリズムは現実への批判であり、現実を揺さぶる表現である。
ーー小説家の関心は、起こったことを物語ることにはなく、ある瞬間、あるいは一連の瞬間を蘇生させること、すなわち、世界を再創造することにある。
パスの書く小説への批評を読んだ日、私は救われる。私が小説について考えていたこと、考えきれないと悩んでいたこと、その両者をつながったと感じたからだ。それはまさに「私」の批評だったからだ。
小説とはなにか。
小説に書かれる対象は詩的精神とぶつかり、その衝突体験が批判精神として小説の言葉を生む。だから小説は物語そのものでも言葉そのものでもあり得ない。それは「私」の「文体」だ。小説の中間につねにある「私」。その私が語る「文体」。それこそが読者と共鳴し、読者と分かり合える術となる。
みたいなことが書いてある。ホントウノコトはもう既にそこにあるのではなく、小説家が語ることによってホントウノコトになるという理解でいいのだろうか。
回転寿司屋で母は私に、準備してきた感謝の言葉だとか、準備してきた面白エピソードとかを語る。最後に「しあわせだよ」とも言う。私は全部嘘だと思う。私は母も小説家であったらいいのに、と思うところで小説は終わる。
たぶんこれは、フィクション(嘘)をホントウノコトにできるのは小説家だけだから。そう作者が信じているから、そういう結びに思えた。
この解釈であってる?
えっ? お前は「小説」をどう思うかって?
まあ、私の書くのはポンコツ小説だから、どーでもいいんですけど、ついでだから言っとくと、私は基本「私小説」は書かない。私は大して面白くない人物でつまらん人生しか送ってないから、書くに値しないと思うからだ。それと自分のことを赤裸々に語って、これが真実だ、とは思わない。ホントウノコトを書けば、それは事実かもしれないけど真実ではない。百歩譲って、書いた本人にとっては真実でも、赤の他人にとっては真実ではない。新聞の三面記事に載る事件のように、同情はしても、なかなか共感は難しい。だから、共感、感動を与えてくれる私小説にであった時は、本当に感心する。神品だと思う。
逆に物語は好きだ。だから、通俗小説は好きだ。物語は、もう既にあって、みんなのよく知るところのストーリーのことだ。普通の人間は、人生のお手本となる物語を生きようとして、うまくいかない。なんとか軌道修正して、物語に戻れることもあれは、外れたままで、とうとう戻れないこともある。そこに喜びがあったり悲しみがあったりする。それこそがみんなに共通する人生の真実だと思う。その時の気持ちがホントウノコトで、それが書ければ満足だ。
今の所、そんな考えでいる。
それから、小説は「場面」を描くものだと思っている。まあ、小説に定義なんでないから、この小説みたいに場面より思索が多くてもかまいはしないが、好んでは読まない。論を読みたい時は、論の形で書かれたものを読む方が好きだ。主張、理由、例示の三つが分かりやすく並んでいるので、読みやすい。小説でこれをやられると、とてつもなく面白くなるか、とてつもなく眠くなるかのどちらからになる。この小説のことは言わない。
余計なことをながなが書いた。ともあれ、「新潮120周年記念特大号全部読む」というマイ企画は、これで終了です。
お付き合いいただいた奇特な皆さん、ありがとうございました。