「授業」について
師や学友がやっているのを見て、学びの履歴を残してみようと思い立ちました。人に見せるというよりは自分のために備忘録として記載していきます。
昨日の国語探究研究会では、「授業」について考えることができました。
「業を授ける」と読める「授業」とは、デジタル大辞泉には「学校などで、学問や技芸を教え授けること。」とあります。今までの授業は確かにそうであったと思います。
しかし、主体的な学びを求めるとなれば、この語義では適当ではないのではないかと感じるところです。
確かに、「主体的に学ぶ方法を教える」という意味で「授業」なのかもしれません。しかし、手法の伝達がその時間の中心ではなく、学びそのものにあるとしたら、「授業」とは違う言葉で表される時間になるのかもしれません。むしろ、その言葉を例えば「学業」などと変えると、逆説的に中身を変えようとなるかもしれません。
反面、私は「授業」の時間も大切だと思うのです。前述の学びの手法を知ることであったり、先行研究を知ることで、「車輪の再発見」に陥らないようにすることができたりします。
また、歴史に誇る天才たちや研究者たちの偉大な発見の結果を享受することで、自分の人生だけでは決して知り得なかったところから、その時代を始めることができます。
先人の偉大な研究の量も膨大になってきました。教えたい、伝えたいことが爆発的に増えています。
教えきれないなら、いっそ教えないで、いろんな知識にアクセスできる「ハブ的知識」を精選して「授業」してはどうかなと思います。そこでは無理に主体性を求めなくてもいいのかもしれません。なぜなら、学問は主体的に学べることばかりではないから。
知らないことは知ろうとできません。教えられるということが、子どものころだけではなく、一生かけて有効なのは間違いありません。
ただし、わかってから意味が分かるという本質的な構造を持った学問はわかるまでは意味が分かりません。一生わからないこともありますし、何のための知識かわからないままということもあるでしょう。しかし、これと同時に言語化できないものを人間は認識できないということもあります。よって一度、言葉として知識に出会っておけば、事物や現象を認識することができる可能性が高まるのです。
「授業」の量と時間は今までの半分にし、残り半分を「学業」に充てる。
教師が磨いてきた「授業」の技術には価値があると思います。そして、それと内発的動機による学びを期待する「主体的な学び」は、相反する気がします。
一緒にやろうとするとどうしても「あざとさ」が出る。つまり主体的もどきになってしまう。
授業は評価する。
学業は評価しない。
「あ、これバランスいいな。」と今、書いていて思いました。
言語化するって大事ですね。