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ポーランドのノヴァフタ文化センターでベクシンスキの絵画を鑑賞した話

2024年の9月19日、ポーランドのクラクフにある、ノヴァフタ文化センターに行った。
目的は、ベクシンスキの本物の絵を見にいくこと。

9月だというのに既に薄い上着2枚重ねただけでは肌寒い空気の中、トラム4番Nowa Huta行きで向かう。

到着したものの、人はまばら。まだ開館前。着いたのが早すぎた。
露店で輪っか状のパン(3zł) を買って食す。ゴマ以外何もついてないけど、これだけでも甘くておいしい。
出入り口がどこだかわからず、建物を一周する。裏には広大な草原が広がっていて見晴らしが良かった。ポーランドの大平原。何だか懐かしい感じがした。日本の田舎の風景に似ていたんだろうか。
いい時間になったところで出入り口も無事見つけ、入館。



Nowa Huta Cultural Centreまえの様子


ベクシンスキの展示が見たい旨を受付に伝えると、
「今日はやってないよ。でも代わりに他の展示が無料で観れるから」
そんなはずない。ちゃんとHPで調べてきた。でもやってないの一点張り。
「この日に行くのですが営業してますか」という旨を記載したお問い合わせメールを数日前に送ってあったものの、そちらにはお返事なし。
納得がいかないけれど、その他の展示を一通り観た。

Mariusz Mikołajekの絵画、


Maria Grazia Colcera写真。

楽しかった。しかしそのまま退却できなかった私は、往生際悪くベクシンスキの展示に関して他の職員に尋ねてみた。すると彼は、

「受付でチケット買えば**時から観れるよ!」

と教えてくれた。
ベクシンスキの展示は曜日によってオープンしてない日もあるから、最初の人は勘違いしてたのかもね。
なんてこった。びっくりした。
というわけで、無事に20złでチケットを購入して、いよいよ観に行く。

ズシスワフ・ベクシンスキ ギャラリー in クラクフ
アンナ & ピョートル・ ドモホフスキ コレクション


入場

暗い展示室内は、何だかダークな音楽が流れてる。
入ってすぐ、私のハートは静かになった。
いわゆる、お家に帰ってきた感覚。好きな作品の前で誰もがなるこの状態。
画集に載ってる、ネットで検索すると出てくる、名前のないあの絵もその絵もそこにはあった。

Marvelous


音楽

常に必ず音楽と共に制作していたという彼だけど、確かにそれを感じた。絵に、音楽が染み込んでる。それが歌う。
私自身が音楽から得ている、あらゆる喜びを確かにそこにある絵たちからも感じ取ることができた。私は“これ”があるものこそ素晴らしいアートだと思うし、“これ”がなければ例え他にどんな素晴らしい要素があったとしてもなんだか引っかからない。人を感動させるものって、結局そういった主観的な個人的なものでしかない。
私にとって、音楽の方がそれを得やすい。
とにかく、ベクシンスキは本当に音楽が描けるんだと思った。

けど何で私はそう思うんだろう。
私はここに来る前に、画集の寄稿文(結構なボリューム)を日本語でも英語でも読んで頭にブチ込んで、彼と音楽の関係性をすでに知ってた。
もちろん、それもある。

…これは外界からの絶縁体として欠かせぬものであり、同時に画業に取り組むための基礎条件でもあった。彼は音楽が無ければ絵を描くことができず、また絵を描かぬときは音楽を聞かなかった。(中略)ー「私の絵画において、何か鮮烈な色づかいで、別の色や異なる形の背景の上に強調して描かれた場所というのは、音楽作品において、あるモチーフが現れる特定の箇所と同じようなはたらきをする。(中略)大切なのは、形や色の発する音が他でもないその場所に配置されることでどのように機能するかである。私は形を持つものを扱うけれども、その目指すところは音楽的なものである、と呼んでもいい」。

出典:
ベクシンスキ作品集成 Ⅱ, ズシスワフ・ベクシンスキ, 2010
補遺 音楽と、そのベクシンスキ作品への影響 アンナ・カーニャ=サイ(美術史家、美術評論家)
[訳 平岩理恵] 


思えば私が15歳ぐらいの時、私が彼の作品に人生で初めて出会ったのと同じ時期に、たくさんの音楽に惹かれた。自分の中で、多分それらが同じフォルダに入っている。
あの時最も好きだったのは、女性の歌が入ってる音楽。特に好んで聞いてたのはChristina Aguilera と戸川純。彼女ら2人の歌とBeksinski、一見なんの関連性もない。けど当時の私は明らかに、彼女らの中のバケモノに惹かれていた。
Christinaは、アメリカのポップシンガー。最近のリリースはもはや全く把握していないけど、もんのすごく歌が上手くて、パワフルな金髪の美女。彼女の声そのものだけで何度泣いたかわからない。
戸川純は、日本のかなり個性的な歌手。映画館みたいにいくつもの世界観を持ってて、独特の存在感とオーラがあって、そして実にさまざまな歌い方ができる。そしてとてもかわいい。
今はなんでも聞く。最近のお気に入りは自分の心音。音楽って最高。

ああ、でも、本当は誰の音楽とか、誰の作品とか、そういう話じゃない。

バケモノ

バケモノ。
Beksinskiの絵の中に、バケモノがいるのです。絵の向こうの、音楽の向こうの、バケモノ。
素晴らしい絵や音楽は、それ自体は本当は単なる扉で、その向こうにバケモノがいる。
ちゃんとそこに通づる“扉“の役割をきっちり果たしているものが、ジャンルに関わらずいい作品だと私は思う。
ていうか、たとえば他のどんなジャンルの物事でも(例:ファッション、建築、エンジニアリング、コント、漫画、祈祷、掃除、料理、とか、というか最早何でも全て)アーティスト、というか行為者は、そこまでの扉や道を整備する人。
だから、その人自体がバケモノというより、バケモノへの繋げ方、アクセスの仕方が上手い人、みたいな。
だから本当は、モチーフとか素材とか技法とか、そういったことは問題ではない。
そしてもちろん、それを行う人間自体が“神“とか“教祖様”では決してない。

私には、シャーマニズムという言葉が思い浮かぶ。
人が、人の心の中の、全て繋がっている場所に向かって、ある行為をするということ。
それができる人には、本当に頭が下がる。


仏陀のエピソードで、この件に関連がありそうなものを以前読んだことがある。
彼が道端にあった金銀財宝を“毒蛇”と呼んで気にも留めなかったお話。

バケモノ、神性へ道をつなげるにしても、毒蛇の誘惑は手を変え品を変え、数限りなくある。
それを退けて自分の使命を全うする人というのが、この世にはきっとたくさんいる。
ベクシンスキは、私にとってその中の1人。

さっきから完全に私の主観で書いているけど、バケモノの感じ方、見つけ方はもちろん人それぞれ。
私にとってのバケモノは、誰かにとってのなんでもないモノかもしれない。
しかも、“毒蛇“の定義もまた人によって違う(かもしれない)。
それを感じて識別する方法は、ただシンプルに、だけど真っ直ぐ何度でも自分のハートに尋ねるだけ、なのです。それが心からの感動に至る方法、みたいな。
そして、人生においてそういった作品に出会えるのは、本当に貴重で幸せなこと。何度もあることじゃない。

彼の作品は“三回見たら死ぬ”と日本のネット界でウワサされているけれど、私にとっては、見る度に蘇生するといった感覚がある。
生きて本物を見ることができて、なんて運がよかったのでしょう。


場内の様子

とにかく、私は展示会場(そんなに広くない、作品は30点ほど)に2時間はいたと思う。じっくり執拗に2周して絵を見続けた。これを見るためにポーランドまで来たんだと改めて思った。
(あ、あとKrakówの街中の至る所にある、数々のファビュラスな教会たち!その話はまたのちほど。)

会場にいる間、ポツポツと他のお客さんが来てた。若い姉ちゃん、中年ご夫婦、お兄さん、など。そして、みんなバシバシ写真や動画を撮ってた。インスタにでも上げるんだろうか。
途中で、施設の職員がでかいハシゴを持ってきてライトの具合を調整し始めたけど、全く気にならなかった。
その日私は、ハッピーな気持ちで帰宅した。また見に行きたい。

現在ポーランドにいる方、ヨーロッパ近郊にいらっしゃる方、日本にいる方も、こちらさん、絶対おすすめです。Kraków自体がおすすめ。



ノヴァフタ文化センター

Nowa Huta Cultural Centre(Nowohuckie Centrum Kultury)

al. Jana Pawła II 232, 31-913 Kraków, Poland
※営業時間、入場料等は必ずWebsiteをご確認ください

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