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変わる軸

 最近凄く感じている違和感がある。

 僕は現在就活真っ最中だ。やらないと決めていた就活。ある企業の新卒募集に応募したことがきっかけでいつの間にか始めていた就活。これはタバコに近いことが起きている。勧められて吸い始めたタバコがやめられない。興味があって一本吸ってしまったタバコを気付いたら幾年も吸っていた。これに近い。凄く興味のある企業が今年から新卒採用を始めるという情報を聞きつけ応募したのが最後(それが最初だが)。就活というものを辞められなくなっている。内定というゲームクリアを見ることが出来ていないからだ。僕は人生で起こるイベント全てをゲームだと思って攻略する。受験戦争もそうだった。エンディングの分岐で一番悪いエンドを迎えてしまったが。そんな話はどうでも良い。就活をしていて更に感じた違和感があるのだ。それを今回はお話ししたい。

 意識が高い人、意識が高い“だけ”の人、自分は先を走っている”と思い込んでいる“人は、他人からの言葉を聞いた時、自分の軸は変えない程度に参考にすると言う。自分の軸は大切に貴方の意見を参考にするよと他人の意見を綺麗に受け流す。自分の軸がぶれている気がするから一旦立ち返るという。それは果たして正しい選択なのだろうか。確かに”軸“というものは大切だとは思う。分からなくなった時に帰る場所があると生きやすいそれに抽象的であればあるほど解釈に幅も広がり柔軟に対応できる。だが、具体度が高い場合、本当にそれで良いのだろうか。僕はとあるオンラインの団体に入っている。オンラインの団体は良い。全員の意識が高いから自分もそのスピード感に鼓舞され、先に進もうと思える。しかし、それも時には悪く作用することがあると思う。それは主宰者の宗教団体となり得ると言うところだ。僕は主宰の方は尊敬しているし、なんなら就活を辞められずにいるきっかけを作った企業の代表だ。ただ、少し乗っ取られている人が多いように感じてしまう。それこそ宗教チックな感覚さえ覚える。宗教を否定するつもりはない。何故なら僕は宗教を超えた先に自然があると考える側の人間だからだ。ここで言いたいのは、盲目的に信仰しすぎている人が多いのではないかということだ。とある集団を例に挙げてしまったがこれはどこにでも言えるはずだ。何かを盲信する事を悪い事だとは言わない。時にはそうする事で立ち直る必要がある場合もあるかもしれない。だが、そうでない人間は一度自分がそうなっていないか気にするべきだ。べきべきじゃない論争は嫌いだが敢えて言わせてもらう。話が逸れてしまった。時を戻そう。本当に人生の軸は変えてはいけないのだろうか。僕は変わらない事の方が不思議だと思っている。何故なら時代は刻一刻と変化している。社会情勢も前進と後退を繰り返しながら変化を続けている。そんな状況下で履いている靴を絶対に変えないというのは如何なのだろうか。裸足がいいんだと裸足で歩いてきた人がガラス片の混じった砂利道を前にして果たして裸足で闊歩するだろうか。

 初志貫徹するのは凄いことだと思う。そうすることが出来るように自分の道を整備しながら歩いているということだと思うから。でもそれを成功させられるのは稀だ。少しでも足が痛くなったら靴を履いていることを確認するのではなく、足元の道が変わっていないかを確認するべきなのではないだろうか。

 この意見もそのうち変わってしまうのかもしれない。

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