情熱は、伝播する。『だが、情熱はある』の先へ、たりない私たちの物語は続いていく。
【『だが、情熱はある』/演出:狩山俊輔・伊藤彰記・長沼誠】
2009年に結成された、山里亮太(南海キャンディーズ)と若林正恭(オードリー)によるユニット「たりないふたり」。2人の半生を、森本慎太郎(SixTONES)と髙橋海人(King & Prince)を主演に据えてドラマ化すると最初に知った時は、正直驚いた。
僕自身、山里と若林の活動を長年にわたり追いかけ続けてきたし、2021年5月にオンライン配信された解散ライブ『明日のたりないふたり』も号泣しながら観た。そんな僕ですら驚いたのだから、そもそも「たりないふたり」のファン以外の人は、今回のドラマ化の企画を知った時、驚くよりも前に頭にハテナが浮かんだのではないかと思う。
各話のオープニングで、予め、ナレーターを務める水卜麻美が「友情物語ではないし、サクセスストーリーでもない。そして、ほとんどの人において、全く参考にはならない。」と断っていたように、山里と若林の半生には、老若男女の視聴者を惹きつけるようなドラマチックな展開や華があるわけではない。また、誰もが自分の人生に応用可能なメソッドや有益な情報を得られるわけでもない。
それでは、なぜ、今作の製作陣は、「たりないふたり」の半生をドラマ化するという無謀とも思える企画に挑んだのか。この企画に、どのような意義を見い出したのか。その答えは、『だが、情熱はある』という一点に尽きるのだと思う。
このドラマの主題歌に起用されたSixTONESの"こっから"の中で森本が鮮烈に叫び上げていたように、山里と若林は、胸の内に昂る情熱をエネルギーに変えながら、一つずつ逆境を乗り越え、自らを取り巻く状況を変え続けてきた。それはとても愚直な歩みであり、2人は、時に傷付き、傷付け、その度に「たりない」自分と真正面から向き合いながら、懸命に自己研鑽と自己変革を重ね続けてきた。そして、やがて2人は、「たりなさ」を抱えたまま芸能界の頂点へと辿り着いた。
それは、理論や理屈で説明できるようなキャリアではなく、とても乱暴なことを言えば、『だが、情熱はある』からこそ開かれた歩みであった。「たりてる世界」を目指して、必死に闘い続けてきた2人は、結局その世界に辿り着くことはできなかったけれど、解散ライブの最後に、「ああ、たりなくて良かった。」という輝かしい確信を掴み取ることができた。
そして、果てしない情熱によって駆動され続けてきた2人の半生は、2人と同じように「たりなさ」を抱える人々、つまり、「たりない私たち」に大きな勇気を与えた。僕は、2021年の「たりないふたり」の解散ライブ『明日のたりないふたり』のレポート記事の中で、このように書いた。
情熱は、伝播する。
僕は、『だが、情熱はある』を観ながら、改めてその確信を深めた。そして同時に、このドラマに込められた意義の深さに気付くことができたような気がした。
『たりないふたり』シリーズの視聴者の中からCreepy Nutsが生まれたように、いつか、今回のドラマの視聴者の中から、「たりなさ」を抱えたまま才能を開花させる未来のスターが生まれるかもしれない。きっと、今作の製作陣は、その可能性を心から信じたからこそ、この無謀とも思えた企画に挑戦したのだと思う。
このドラマは、最終回で、「たりないふたり」の半生がドラマ化されることが発表されたシーンを描くばかりではなく、ドラマのオンエア後に現実で起きた出来事(ラジオ番組『オードリーのオールナイトニッポン』や、森本をゲストに迎えた『不毛な議論』における会話シーンなど)も描きながら、最後は、現実を追い越す形で、ドラマが最終回を迎えた後の世界をも描いた。それは、これから僕たち視聴者が生きていく世界そのものであり、「たりない私たち」の物語は、また"こっから"続いていく、ということなのだと思う。
とてもメタ的な構成であり、その意味で、これほどまでに当事者意識を駆り立てるドラマは他にないかもしれない。僕自身の体験として、今作を見終えた後、いつまでも胸の中で強烈な余韻が消えずに残り続けている。既に最終回を迎えてしまったけれど、今もなお、胸の内で情熱が燃えているか、このドラマに問われ続けているような気がしている。
山里と若林の現実の物語に、そして、森本と髙橋たちが創り上げたドラマの物語に心を震わせられた一人として、僕も、「たりなさ」を抱えたままどこまでいけるか、これからも自分なりに挑戦し続けていきたい。
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