宇多田ヒカルの『BADモード』が示したJ-POPの現在地と未来について。
【宇多田ヒカル/『BADモード』】
宇多田ヒカルの8thアルバム『BADモード』は、1月に先行配信が開始されて以降、既に海をも超えて、数え切れない場で語り尽くされているように、そう、あまりにも革新的な作品である。
卓越したプレイヤビリティを誇るミュージシャンたちによって鳴らされる生音と、極めて精緻に統制された電子音の新結合。そうしたアンサンブルによって創出されるのは、息が止まるほどの緊張感と、同時に、どこまでも自由で、軽やかなグルーヴだ。そのあまりにも美しい矛盾を秘めた今作は、こうしてありふれた言葉を綴るのが虚しくなるほどに、全編にわたって圧倒的な未知性を放っている。
しかし、今作の革新性について、必要以上に過大に捉えてしまうと、その本質を見誤ってしまうのだと思う。
今作において、宇多田と共に共同プロデュースを務めているのは、A.G.Cook、Floating Points、Skrllex、小袋成彬の4名。それぞれが、自身のオリジナリティを遺憾なく投影している一方で、しかしよく耳を澄ますと、全編に、日本的な音階をベースとしたメロディや、日本語詞への強いこだわりを見い出すことができる。(そしてそれは言うまでもなく、宇多田自身の確固たるオリジナリティである。)
つまり、一聴すると最先端のサウンドデザインに耳を奪われて圧倒されてしまうのだが、今作の正体は、(これまでの彼女の作品がそうであったように)正真正銘のJ-POPなのだ。より厳密に言えば、これまで誰も成し遂げたことのなかった高い水準へとアップデートされた、次世代のOSを兼ね備えた新しいJ-POPである。
私たちが音楽に心を動かされる時、それは、言葉(歌詞)によるものだろうか。それとも、音的要素(メロディや和音、リズム、音色など)によるものだろうか。あえて断言してしまえば、その答えはどちらか片方ではない。「わたし」と「あなた」を繋ぐものとして、そこに言葉と音が渾然一体となったコミュニケーションが成立する時、私たちは、その音楽にどうしようもなく強く心を動かされるのだと思う。そして私たちは、それをポップ・ミュージックと呼ぶ。
彼女の生々しい息遣いの一つひとつに、細やかな声の掠れや揺れの一つひとつに、不意のシンコペーションの一つひとつに、私たちは、宇多田ヒカルという人間の等身大な心情を感じ取る。そして、一つひとつのユニークな押韻や譜割り、不敵なリズムを乗りこなしていく一つひとつのフロウに滲み出る、彼女が抱くリアルな感覚を共有することができる。
そうした無数の要素が、歌の中で有機的に結び付く時、彼女が紡ぐ言葉(今作においても、それらの多くは日本語詞である)が、その意味と鮮やかに溶け合うようにして、音楽として宙空に広がっていく。それは、音楽と共に、いや、音楽の中で生活を続けてきた彼女にとって、息を吸って吐くような自然なコミュニケーションの形なのだろう。
言葉だけ(日本語だけ/英語だけ)では伝えられないからこそ、音だけでは伝えられないからこそ、彼女は歌を歌い続ける。そして、その歌こそが、言葉以上の、音以上のメッセージを、私たちリスナーに温かなリアリティと共に共有してくれる。そうしたコミュニケーションは、あえて無防備な表現を用いて説明するならば、まさに、ポップ・ミュージックにしか成し得ない奇跡なのだと思う。
今作『BADモード』に収められた10曲は、他でもない、今この記事を読む「あなた」のために開かれたポップ・ミュージックである。日本語を第一言語とする私たちは、彼女の歌の一つひとつの機微から、表面的な言葉以上の、鼓膜を振るわせる音以上の、リアルで豊かなメッセージを受け取ることができる。そしてそれは、とても豊かで幸福な音楽体験なのだと思う。
今作によって、この国におけるポップ・ミュージックの在り方は不可逆に変わってしまった。それは、とても震撼すべき出来事ではあるが、一方で、変化に富む時代と共に変わり続けていくことこそがポップ・ミュージックの至上命題であるとしたら、これは、起きるべくして起きた革新なのだろう。
ここから新しく始まるJ-POPの歴史の中で、そして、そのシーンの最前線で、これからも変わらずに、宇多田ヒカルは、彼女にしか歌い得ない歌を歌い続けていくはずだ。その未来に、僕は、どうしようもなく果てしない希望を感じている。
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