美について 甘美なる道具或いは汚穢なる目的
【Yuppo】 イヤーこの2か月、旅し過ぎました。玉ちゃんは4万キロくらい移動しました?ぼくも脳内だけで8光年くらい旅したかな(笑)
【お玉】 お陰でこのnoteという僕らの本業がおろそかになってすみませんでした。さぁ、2か月ぶり、復刊!
「究極美」はあるかー三日間問題
【Yuppo】 10年以上いけ花をやってるんです。その流派に「野菜・くだものをいける」ってテーマがあって、一昨日それやってたんです。
【お玉】 美人お姉さんに教えてもらってたの?
【Yuppo】 そこ大事なポイントです。「美人は三日で飽きる」って言ってた友人がいます。もし本当にそうだとしたら三日目以降その人は美人?この問題、今回のお花のテーマと同じなんです。今回のお花のテーマの醍醐味は「日常にありふれたものも美しいものになる」ってこと。
【お玉】 答えるの逃げた?逆に攻めたんじゃないか?野菜は三日で食えなくなるってこと?いずれにしろ、固定された「究極美」ってのもあるようで無さそうだよね。そもそもYuppoの言っている美しいって何だ?
美 ハヒフヘホの感覚が発見する
【Yuppo】 美って、古代ギリシャの人は究極目的みたいに考えてたみたいです。5年位前かな、先端気取ってるビジネスマンたちがパクッて「企業の目的は真善美です」って言ってるの聞いて噴飯しました。企業の目的は利潤か倫理かとかその手の話と関係なく「どんだけ中身無し?」って。残念ながらそんな考え方が浸透してきちゃってますけど、ぼくにはそれ、全然美しくないなと。
ぼくからすると美って感動の源泉。固定された客観美とかそんなの(あるのかもしれないけど)追い求めても空しい。
夕陽を見てなぜか「ハァー」ってため息が出る溶けるようなあの感覚、
衝撃で「ビビビン」って脳みそを揺さぶられてるあの感覚、
突然「フッ」と視野が広がって新しい世界が見えるあの感覚、
物事の表と裏が繋がって腑に落ちる「へー」っていうあの感覚、
それやこれやの騒々しさから解放されて「ホッ」とするあの感覚、この「ハヒフヘホ」の感覚に張り付いてるのが僕の「美」です。
だから、教科書に黄金比・白銀比や和音は美しいって書いてあっても、それは必ずしも僕の美ではない。美は在るものではなくて、こっち側から受けとめる僕がいて、環境と僕とのコラボでたまたま発見される状況の産物。
それでもやっぱり キレイなものは美しい
【お玉】 先週パリにいたんだよ。普段、西洋の自然を征服する感覚と、東洋の自然と共に在る感覚の違いが、建物や庭づくりに現れている、なんて言って、地球環境問題を語る際に、神羅万象と共に在りの東洋思想を持ち込むべきだ、なんて吠えてるんだけど、やっぱりパリは素敵だった。。。
【Yuppo】 それって、直観的な「ハァー」と、玉ちゃんの美の定義の表と実際の裏が繋がった「へー」の美かな。
【お玉】 だけど難しいところでさ、それを受け止める僕の方の美の定義というのさえ教育されてでき上ったartificial cordもあるもんね。さっきYuppoは、美は在るものではなくて受け止める側が発見する状況の産物って言ったけど、僕の中で「パリって美しいんだ。パリを見たら『ハァー』って感じるものなんだ」という定義が存在していたパターンかもしれないよ。僕にとってパリの美は僕の今人生で植え付けられたものかもしれないし、以前から「在った」かもしれないし。。。
【Yuppo】 確かに、キレイなものをみたら「ハァー」ってなるとしても、何をキレイと感じるかについてさえ、arificial codeに感覚を規定されている可能性はありますね。
美 世界観の共有を確認する道具
【Yuppo】 今回のお花はまさにそれがテーマだったんだと思うんです。新鮮な野菜って、瑞々しくてそれそのものが美を放ってる。
逆に花屋で売られてる花や贈答用の果物なんかゴテゴテした装飾を施されてキレイではあっても、人工的で、生命美みたいな観点からはちっとも美しくなくなってしまっている。でも「これを美しいと感じないなんてあなたどうかしてるわよ?」と美への共感圧力をかけてくるわけですよ。
【お玉】 その共感圧力って便利な面もある。それは例えば、贈答用の果物を受け取る側から一々「美」についてのやり取りを仕掛けられなくて済むこと。贈り主としては「キレイ」なものを贈っておけば「美」ならざるものを贈ったとしてもartificial codeにそっているので無難だし、受け取る側だって贈り主の勝手な美意識を押し付けられるよりはキレイなものであれば受容するよね。
【Yuppo】 贈り物の交換て「社交辞令」つまり社会における挨拶だから、特定ソサエティで共有されているartificial codeどおりに振る舞って「あの方たちにはお分かりにならないかもしれないけど私たちは言語化が難しい『キレイ』の感覚さえ共有できてるんざぁますよね。」って確認するのが大事、って側面はありますよね。甘美な社会的同族意識を形成してくれる。美の概念はそうした道具になりやすいのが問題。
なぜ美概念の道具化はいけないのか
【Yuppo】 そうした美のartificial codeの面が強化され過ぎると、美への意識という生々しい人間性が、固定化した「キレイ」という記号でのやり取りの中に矮小化されて絡めとられてしまうこと。そしてそれが、世界を狭く・息苦しいものにしてしまうこと。
例えば、こないだ表参道で、恐らく表千家系と思われるお茶事帰りの有閑マダムたちの集団に遭遇しました。集団が二手に分かれた瞬間、マダムAが「あたくしさっき申しませんでしたけどあの方苦手なの。あの方のお点前、なんかアレでしょう?あぁたもそうじゃなくって?」とマダムB, Cに同意を求めながら、別集団を歩くマダムDをディスってました。20歩前まで超親しげに喋ってたのに、別れた瞬間これ。笑えるような恐ろしいような。
【お玉】 人間同士の関係を構築する手段としてのお茶事が、同じ流派内の些細な作法(≒キレイという記号)の違いを巡って人間関係を阻害する原因になってるよね。同族意識の過剰強化は、異なるキレイの記号を受け入れないことを正当化してしまう。
内的な自分固有の美の定義の発信よりも、外的な固定された美のオーソリティへの接近を貴ぶような権威主義的なおもねりという醜悪。またその醜悪への無自覚という醜悪。
【Yuppo】 Yes、美のオーソリティがもし存在するとすればそれは各人の内的美学が世に発信され蓄積された文化的な生き物。それを固定化してしまうことってこれからの文化発展の余地を阻害すること。息苦しい。
だから、美のaritificial codeが過剰強化されることは、痛快児としてはアンチを唱えたいわけです。
目的としての美
【Yuppo】 冒頭の「野菜・くだものをいける」に戻りますね。草花のartificial code としての「キレイさ」だけを美としてしまって、老いや死も含めた意味での「生成り」の有り様に美を見出す目或いは感じる感性を失うようには僕はなりたくないと思いました。
世阿弥の『風姿花伝』には確か、優れた役者には老いたら老いたなりに出てくる花がある、という一説があります。世界最古のマーケティング書と言って良いあの本には詩的要素が全くなくて好きになれませんが、この一節については共感できるものがあります。
全く汚い、と世の多くの人が貶めるものの中に、お世辞でなく心底から美を見い出せるような、そんな痛快美の無差別愛好家でありたい、と思いました。そして多くの人が、生活の中にありふれ従来見過ごされていたものの中にその人なりの美概念を見出すことができれば、その人の生活は経済・物質的豊かさの有無にかかわらず、彩り豊かな、美に囲まれたものになるのではないでしょうか。
しかつめらしいいやらしさの漂う利休をあんまり褒めたくもありませんが、フェアに見れば、彼はこの無差別に痛快に美を見出して愛好する達人であったのだろうと思います。
【お玉】 その意味においては、ちょっと小綺麗なスーパーでちょっとお高めの野菜や果物を花材としてチョイスした時点で、このテーマを十分咀嚼できてなかったかもしれないね。
【Yuppo】 ですね!
【お玉】今回、Yuppoが投げかけたお題だったからか、かなり哲学的な会話になったように感じる。これもまた、ありのままに受け止めよう。