夾竹桃の花-エピローグ
彼女が亡くなってから、失われた心を埋めるように、拓は一心不乱に勉強に励んでいた。何かの機会に、本の行間に、彼女が植物を語るときの熱い思いを思い出す。思い出すたびに次第に植物学への傾倒を強めていった。
教育学部で、英語科から理科へ比重を移した。卒業した後、理学部の理学研究科(生物科学専攻)に進み、博士課程を満期退学した。春には理学部附属自然植物園(後に、「附属宮島自然植物実験所」となる。)に就く予定である。
すべての荷物を送り出し、大家に鍵を渡した。すべて取り去った部屋は何もなく、彼女がいた空間が見納めになる。抱きついてきた感触が蘇り、落ちた涙が手に感触を残していた。「覚えておいてね。」の声が脳裏でこだまする。
アパートを引き払うと、もう来る機会もないだろう。御幸橋方面に来る機会も少ないだろう。帰りに、中川家に挨拶に行った。母親は予測していたかのように招き入れてくれる。仏壇にお参りした。もう7年前になるが、彼女の写真を見るのは初めてだった。写真を撮ったことがなく、1枚もない。爽やかな笑顔が変わらず待っていた。
一人娘を亡くした両親の気持ちを推し量ることなどとてもできないが、当時は想像もできない悲しみに襲われていたに違いない。
「来たら渡してくれと言われてました。」
母親は大事そうに図譜を取り出してきた。図譜を入れていた布製の袋と一緒に持ってきていた。濃紺のトートバッグだった。彼女が本と文房具などを入れて持ち歩いていた。
「ありがとうございます。」
受け取る声は沈んでいるが、残してくれた気持ちを受け取る。
最後の挨拶に、母親が切なげに、思いやるように、
「お幸せに。」
その意味の言葉が分かり、思わず目頭が熱くなる。
ーーーーーキョウチクトウの図譜
原爆投下前の広島駅は白亜の駅舎であった。ここから北には可部があり、東へは西条に向かい、南方面に海軍工廠のあった呉がある。呉はこうの史代『この世界の片隅に』の舞台となる。
朝倉拓は西に向かう。広島駅から列車が動き出した。大学に入学するときにはSL(蒸気機関車)だった。山陽本線の電化が行われていた。横川駅を過ぎ、西広島駅を過ぎると、すぐ草津の側を通る。
「この世界の片隅で」では、草津はすずのお祖母ちゃんが住んでいたところであり、すずは自分の家がある江波から歩いて草津まで来たことがある。草津には、国民学校があり、原爆による被害は酷くはなかったが、被爆直後から救護所となった。校庭には遺体が並べられ、引き取り手のない遺体は校庭に穴を掘って火葬された。
列車の乗客は多かったが、廿日市を過ぎると、駅に着くたびに空いてくる。宮島が左手に見えだした。日本古来の自然の姿が良く残されている。植生は典型的な暖地温帯常緑広葉樹林であるが、宮島にしかない特徴もある。「春にはここで働く。」彼女が目指していた植物の研究をする。何かにつけて思い出すだろう。次第にほのかな思い出になるのだろうか。
周りは空席になっていった。座席に座り、流れる景色に、広島がだんだん遠くなっていくことを思い知らされた。臨海の海軍施設のあった大竹コンビナートが見えてくる。
「もうここか、まだここか。」
交錯する地点だった。錦帯橋の最寄り駅である岩国駅を過ぎ、岩国南駅の右手には有名なハス田が広がっている。しばらくすると、かなり空いてきた。周りには乗客は見えない。
朝倉拓は『植物図譜』を手に取った。「しおり」がしてあった。しおりを目指して図譜を開いた。開いてみると、キョウチクトウの図譜だった。キョウチクトウの画と記載がなされていたが、『図譜』で見るキョウチクトウの葉は細く、艶やかに八重の花が咲いている。キョウチクトウの花期は6月から9月と長い。ヒロシマの夾竹桃の花が平和の中で咲き続けることを祈りながら『植物図譜』を閉じた。
ーー終わり
『夾竹桃の花』
第1章 夾竹桃の花
https://note.com/tsutsusi16/n/n9cb954d68557
第2章 御幸橋
https://note.com/tsutsusi16/n/nfaa2383b6842
第3章 薫風寮 https://note.com/tsutsusi16/n/na11e000c2c34
第4章 紅顔の美少女 https://note.com/tsutsusi16/n/n73ddebdb2e8a
第5章 制服 https://note.com/tsutsusi16/n/n4486b4f86c7e
第6章 私服 https://note.com/tsutsusi16/n/nec4b4d663220
第7章 植物学 https://note.com/tsutsusi16/n/n56041a915923
第8章 原爆の子の像 https://note.com/tsutsusi16/n/n15c03674dc01
第9章 植物図譜 https://note.com/tsutsusi16/n/nb55fea579c4a
第10章 友人の発症 https://note.com/tsutsusi16/n/n52382a8174b1
第11章 覚えておいてね https://note.com/tsutsusi16/n/n4a8f0b54d05c
第12章 爆心点 https://note.com/tsutsusi16/n/n0cb99cfb7811
夾竹桃の花-エピローグ「夾竹桃の図譜」https://note.com/tsutsusi16/n/n7a592a171b59/
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