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密輸的現代批評へ向けて

(以下はこれから連載していこうと思っている展覧会批評の序文にあたる文章の下書きです)

はじめに

この連載では現代アートと呼ばれる分野の作品や展覧会を巡りながら、「現代」を批判的に考察していく。そこには間違いなく批評的な性質があるのだが、私は伝統的な鑑識眼(good eye)に基づいて「芸術作品」の品定めをしたり作者の意図を読み解いたりしないので、一般に期待される現代アートの批評とは異なるものになるだろう。また、作品や展覧会の背景に「読解されるべき真実」があるという素朴な前提も採用しないので、難解とされがちな現代アートを「読解」する場にもならない。私がここで目論んでいるのは、「現代アート」を媒介として、私たちが生きるこの世界を、好奇の眼差し(curious eye)に基づいて考察することである。依然として不明瞭なこの目的を少しでも明らかにするために、この連載が「何を」「どのように」考察していくのか、できるだけ簡単に紹介したい。

現代アートと現代性

冒頭で述べたようにこの連載では「現代アート」を媒介として「現代」について考察していくのだが、この2つの語の関係性は決して自明ではないだろう。同時代に作られた作品を必ずしも「現代アート」と呼ばないこと、そして100年以上前に発表されたマルセル・デュシャンの「泉」を依然として「現代アート」と呼ぶ人たちがいることからもわかるように、わたしたちが「現代アート」という語を使うとき、「現代」は必ずしも時間的な分類を示さない。では、「現代アート」における「現代」とは何を意味するのだろうか。

この問いを明らかにするために私はここでオーストラリア出身の美術史家であるテリー・スミスを参考にしたい。彼によれば、「現代アート」と呼ばれるべき作品群は、彼が「現代性(contemporaneity)」と定義する諸問題に取り組む作品群のことである。現代性という語に象徴される諸問題とは、グローバライゼーション、脱コロニアリズム、アイコノミーという主に3つのエネルギーの中で現れてくる課題のことであり、具体的には移民、戦争、テロリズム、気候変動といった問題が挙げられるだろう。彼は、現代アートと呼ばれる作品群はこれらの問題を描いたり、その諸問題が立ち現れてくる前提となったコミュニティとは異なる人々のつながりが生まれる契機でなければならないと言う。いや、むしろそうでないものに対して批判的だというべきだろう。彼はこのような問題系に取り組まない芸術家は「アーティスト」かもしれないが「現代アーティスト」ではないと主張すると同時に、そのような責任から目を背けることによって芸術批評の場が「ノンセンスな商業的おしゃべり」によって埋め尽くされていることを批判している。彼による現代アートの定義は次の一文に集約されているだろう。

現代アートとは現代性の多様なエネルギーに駆動されるアートであり、それらのエネルギーを具体的に描くことでそれらが実際に働いていることをわたしたちに見せるアートであり、私たちの未来を開かれたものとして保つためにそれらのエネルギーを変容させようとするアートであり、これから訪れるものへのコミットメントへと私たちを引き込むアートである。

Terry Smith, 2019, Art To Come, p. 50. (拙訳)

スミスによるこの定義が「現代アート」と呼ばれる分野を狭めていることを考慮すれば、彼の定義を不当だと考えるアーティストや批評家がいても不思議ではない。事実、それは現代の多様なアートマーケットと照らし合わせたときに相当に排他的と言わざるを得ない。しかし私がこの連載であえてスミスによる定義を採用するのはまさにこのマーケット化する現代アートを拒否するためであり、作品の価値を資本的価値のみに委ねないための最初の手続きなのだ。そして、冒頭で述べた「現代アートを媒介として現代について考察する」という目的は、まさにスミスによる現代アートの定義に内包された課題なのである。しかし、先に述べたような「現代性」というエネルギーによって生じる諸問題は、果たして「現代アート」を媒介として思考されるべきものなのだろうか。もっと科学的な記述の対象であるべきではないのか。この問いに答えるために、本連載が「どのように」思考するのか、そのアプローチについて見る必要がある。

好奇の眼差し、あるいはキュレーター的

本稿の冒頭で私は伝統的な鑑識眼(good eye)を拒否して好奇の眼差し(curious eye)に基づいて考察すると述べたが、これはイスラエル出身のキュレーターであり芸術理論の専門家でもあるイリット・ロゴフが論じていることだ。彼女によれば、伝統的な芸術界隈で重要とされていた観察眼は「good eye」であり、それは作品や展覧会に「読解されるべき真」があるという前提に基づいて、作家やキュレーターの意図、あるいは画材や構図といった諸要素をきちんと読み解くことができる技術のことであった。それに対して現代アート、特にvisual cultureと呼ばれる比較的新しい分野で求められるようになった眼差しのことを、彼女は「curious eye」と呼んでいる。curiosityとは「そこになにか知らないものがある」という不安定さのことであり、その不安定さに基づいた眼差しとは、まだ知られていないこと、まだ知識として明確にされていないこと、まだ考えられていないこと等に対して開かれた眼差しのことである。

この不安定さによって駆動されるがゆえに既知と既知の隙間へと流れ込むようなアプローチは、複雑な世界を理解可能な単位で切り分けることによって知を生産してきた近代的なアプローチと逆の力を持っている。言い換えるならば、good eye的な所作が世界を切り分けることによって成り立っているとすれば、curious eyeが求めるのは切り分けられて複雑さを失った世界をもう一度統合することである。それは、近代的な所作によって世界の「複雑さ」そのものに対して鈍感になった私たちの感性を今一度開くことである。ロゴフはこのような伝統的な批評とは異なるが依然として批評的である態度のことを「キュレーター的(curatorial)」という語を用いて論じている。

ある意味で「キュレーター的」というのは思考あるいは批判的思考のことであり、それは自身を具現化することを焦らず、また明確にすることを焦らず、しかし私たちが予想していなかった方向を示すまで諸問題と共にあることを可能にすることだ。

Irit Rogoff, 2006, 'Smuggling' – An Embodied Criticality, p. 3. (拙訳)

彼女の提案する「キュレーター的」とか「好奇の眼差し」といった語の特徴は、彼女が好む「密輸的」という表現にもよく表れている。それは、既存の枠組みや境界を超える動きであり、正規のプロトコルに依存しない知を追求する態度である。では、なぜこのようなアプローチが重要なのか。インターセクショナリティという概念を参考にすることで、その大まかなイメージを共有したい。

インターセクショナリティ、あるいは密輸的

インターセクショナリティとは、性別や人種、国籍といった諸カテゴリーが重なった部分での権力や差別を理解するために提唱されたフレームワークである。実際の裁判を例に見てみよう。1976年、5人の黒人女性が、アメリカの自動車会社であるゼネラルモーターズを、黒人女性に対して雇用上の差別及び不当な解雇を行っているとして提訴した。裁判所はこの訴えを人種差別と性差別2つの側面から調査を行う方針とした。結果、当時のゼネラル・モーターズでは白人女性が事務職として働いており、黒人男性が生産ラインに従事していたことがわかった。この2つの事実によって、ゼネラル・モーターズでは雇用において性差別も人種差別もしていないと判断され、訴えは棄却された。しかし、事実としてゼネラル・モーターズは1970年までに一人しか黒人女性を雇っていなかったし、その後に雇われた黒人女性も1974年の不況によってほとんど自動的に解雇されている。つまり、黒人女性特有の経験が、人種と性別を別個に検討されたことによって、十分な検討がされなかったのである。この例において、黒人女性というアイデンティティのことをインターセクショナリティと呼ぶ。人間の特性は性別とか年齢とか肌の色によって簡単に分けることはできないはずだが、近代的な眼差しはそういう複雑な性質をデータベース的欲求によって分類可能なものにしてきた。インターセクショナリティが教えてくれるのはそういう方法の落とし穴である。

同様に、既存のフレームワークに依存した結果、複雑な現実の分析およびその対応に失敗する例は他にもある。例えば、東日本大震災からの復興においては、国の経済活動やセキュリティ・防災といった概念そのものが優先された結果、東北地方沿岸部は地理的な多様さに対して画一的な護岸対策が施された。現在では沿岸部のほとんどの地域が居住禁止となると同時に異様に巨大な防潮堤が建設されたことにより、要塞化する無人地帯というある意味で矛盾したような場所が生じている。防潮堤が津波から土地や人を守ってきたことも事実であるため、私は防潮堤そのものが無駄だとは考えていない。しかし、巨大なインフラ整備によって沿岸部の自然環境が変化してしまったことやランドスケープが完全に書き換えられてしまったこと、そして多くの人が二度と同じ地域には住めなくなってしまったという事実から、私たちは目を逸らすべきではないはずだ。

また別の例としては難民キャンプが挙げられる。戦争や気候変動の影響を受けて難民となった人々は2024年5月時点で約1億2000万人を超えている。増え続ける難民キャンプを安全に営むため、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は難民キャンプ用テントの開発に尽力してきた。また、IKEAによって開発されたシェルターは3年程の耐用年数でありながらわずか4時間で組み立てが可能であり、様々な地域で実用化に至っている。UNHCRやIKEAの取り組みは称えられるべきだが、それと同時に、私たちは「難民の状況が改善されている」という錯覚に陥ってはならない。難民キャンプは飽くまで一時的なものであるべきで、その一時性の継続を容易にすることは問題の解決にはならない。それどころか、難民キャンプを永続的なものにしつつあるのだ。重要なことなので繰り返すが、私はUNHCRやIKEAの取り組みを批判しているわけではない。しかし、彼らの取り組みは様々な現実が複雑に絡み合った難民キャンプという現象のごく一部に対処しているに過ぎない。倫理的あるいは道徳的な「正しさ」によって、あるいはそういう振る舞いによって、私たちは複雑な現実を単純化して理解したり解決したつもりになるべきではないはずだ。

おわりに

このような問題は世界中の様々な地域で、多種多様な様相を帯びている。しかし、それぞれが既存の枠組みを横断した性質を孕んでいるために、表面的には観察されにくいのだ。先に挙げた例について言うならば、東日本の防潮堤はセキュリティの強化という側面から、そしてIKEAのシェルターは難民キャンプの脆弱さを強化したという側面から評価・報告されるため、それ以外の性質については見落とされがちなのである。それは単純にサイドエフェクトが無視されているということではなく、被災地や難民キャンプにおける諸問題がそもそも領域横断的であるが故に近代的なフレームワークでは記述されにくいのだ。だからこそ、私たちには密輸的な思考–––既存のプロトコルを掻い潜る思考–––が求められている。

そして、この密輸的な思考を養う上で重要なのが、スミス的な定義による現代アートなのだ。なぜなら、彼の定義する現代アートが、芸術界におけるモダンとかポストモダンといった分野を統合したりさらに分化したような専門的な分野であることを拒否したものであり、その代わりに「現代性」という概念によって代表される3つのエネルギーが複雑に影響しあった結果どうしようもなく現れざるをえなかった作品群を指すからである。スミスとロゴフの思想が交差するところで本連載が目指すのは、神格化したクリエイティビティとしての現代アートを拒否し、我々が生きる現代に必然性を伴って現れる「現代アート」を媒介として、我々が生きるこの世界について思考することなのだ。

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