
シェイクスピア参上にて候第六章(一)
第六章 ロシアの大地が呼んでいる
(一)アラン・スコットと上杉早雲、ロシアへ飛ぶ
ジェニファー・ホワイトと坪内樗牛さん、それにわたくしのイタリアへの三人旅は無事に終了致しました。ロンドンに戻ってから、詳細なレポートを作成して鶴矢軟睦支社長に提出し、また、口頭でも具(つぶさ)にイタリアの現況を報告いたしました。
わたくしにとっては、イタリアの現状を把握できたことと同時に、あの世の文豪御三方との対談がローマのベルナルド・カッチーニ宅で実現できたことが思わぬ収穫となり、シェイクスピア様に加え、ダンテ様およびセルバンテス様と非常に近くなったと感じています。
そして、思わず、ナオミさんにシェイクスピア様がわたくしの背後でわたくしを守り導いていらっしゃるという事実まで口を滑らせてしまったこと、またダンテ様とも親しくなったことなどを話したことについては、話してよかったのかなという迷いの心も生じました。
しかし、スマホにナオミさんからメールが届き、わたくしを心から尊敬したい気持ちで一杯だというようなことが書かれていて、ナオミさんは飛騨高山で生まれ育ったので、宗教的なこと、神秘的なことには全然驚かない、飛騨はそういう場所だから、わたくしが語ったようなことは、むしろ、自然に受け止めることができるとスマホに書いて寄こしました。それで一安心できた次第です。
ロンドンに戻って五日ほど経った日のこと、鶴屋先輩は会議室にアラン・スコットと上杉早雲、そしてわたくしの三人を呼んで、こう話しました。
「さて、非常に気になっていることがあって、三人を呼んだ。米国とロシアの関係がかなり縺れてきている。ロシアの動きがどうも気になる。プーチン政権下のロシアの現状をしっかりと掴んでおく必要がある。
ロシアには谷崎由紀夫くんがロシア人のナターシャと結婚してモスクワで暮らしているが、彼とすでに連絡を取っておいたから、アラン、それに上杉くん、早急にモスクワへ飛んでほしい。
その理由は、わが「三丸菱友商事」のロンドン支社で、二人はロシア語ができる貴重な人材だ。アランは独学で日本語をマスターしたのは見上げたものだが、エディンバラ大学では言語学で学士号を取る傍ら、日本語と同じく、独学でロシア語を習得した。
その才能は輝きを放つものである。言語学的アプローチで日本語とロシア語を習得したのかどうかは知らないが、アランの語学センスはわが社の中でひときわ光っている。
上杉早雲君は、北海道大学でロシア語を学んだ。スラブ研究センターは北海道大学に置かれているスラブ圏研究の重要なセンターである。
アランと上杉くんは、ロシア関係の優れた専門家になったが、二人とも、その才能を今回、存分に発揮してもらいたい。才鶴ちゃんは、ロンドン・オフィスに居て、アランと上杉君の後方支援をよろしく頼む。」
このような簡単なロシア情報収集の指示を、鶴矢先輩から受けたアランと上杉さんとわたくしは、早速、準備にかかり、二日後には、アランと上杉さんはモスクワのシェレメーチエボ国際空港に到着していた。
谷崎由紀夫さんが妻のナターシャと一緒に、ロシアのアフトワズ社の車であるラーダに乗って出迎えてくれました。
ホテルは、わたくしがロンドンの方から予約を入れておいたビジネスホテルの「ノボテルモスクワキエフスカヤ」が今回の宿泊先になっているので、ロンドンからの二人を乗せた乗用車のラーダを、谷崎さんはそのホテルへと走らせました。
車内で谷崎さんが語りかけてきて、お互いの状況が大体分かってきたということを、上杉さんのメールの内容から知ることができました。
「初めまして。谷崎です。お二人とは初めてお会いしますが、ロシアの訪問は、初めてでしょうか。以前、お越しになられたことはありますか。」
「上杉です。よろしく。ぼくはウラジオストックに二回ほど旅行しました。それだけです。モスクワは初めてです。いろいろと教えてください。谷崎さんはロシアの生活は長いのですか。」
「十二年になります。三十歳のとき、ナターシャと結婚して、こちらに住み着くことになりました。現在、子供が二人います。息子の健太が六歳で、娘のカテリーナが四歳になります。
ナターシャの母リーディアも一緒に住んでいます。彼女は夫とはうまくいかず離婚しています。今日は、二人の子供をおばあちゃんが見てくれていて助かります。」
「わたしはアランです。よろしくお願いいたします。わたしはこれまでサンクトぺテルブルクに二回、モスクワに一回、観光で来ました。
エルミタージュ美術館に魅せられ、サンクトペテルブルクは二回、足を運びました。特に、わたしが目に留めて鑑賞している作品がフランス・スナイデルスの「鳥のコンサート」という作品です。構想の奇抜さにも驚かされますが、やはり、その鳥たちの描写力が素晴らしく、作品の前に長い時間、立ち止まってしまいます。私も結婚していますが、子供は息子のジョージ一人です。」
「上杉さんの方は、ご結婚は・・・。年齢的には私と同じくらいに見えますが。」
このように谷崎さんが尋ねてきたので、上杉さんは非常に親近感を覚えたらしく、自身のことについて語りました。
「ぼくも四十二歳ですから、谷崎さんとは同じ年齢ですね。子供も息子の翔が六歳で、娘の麗奈が四歳ですから、そちらと全く同じ時期に息子、娘の順で子供を持ったということになるなあ。
自分とそっくり似ているので、谷崎さんには何だか親近感を感じますね。」
同車しているナターシャが、言葉を挟んできました。夫の由紀夫さんと同じ歳で、長男長女の生まれ年も同じだと言う話を助手席で聞いていて、上杉さんに非常に興味を持ったようです。
「わたしはナターシャです。わたしの生まれはウラジオストックで、そこで育ちました。五十一番学校というところで学びましたが、その学校は日本語を義務化して教えている学校でした。
小学校から中学校、高校と一貫している学校で、小中高を通じて、日本語を学ぶことができました。由紀夫さんとモスクワで出会った時から、二人はほとんど日本語で会話して過ごしています。」
「そうなんですよ。初めてナターシャと出会った時、あまりにも上手に日本語を話すのでびっくりしました。結局、一緒になるところまで行ってしまいました。
太宰治の作品をほとんど読んでいるという彼女に本当に驚きましたが、とても嬉しくなりました。と言いますのは、私の故郷が青森の津軽半島ですから、故郷の作家を愛してくれているナターシャに親しみを覚えたというわけです。」
谷崎由紀夫さんとナターシャの出会いに聞き入った上杉さんは、二人は結ばれるべくして出会ったのだなあと感動してしまったのです。
ナターシャは身長が一六〇センチ足らずで、それほど大柄ではありません。ブロンドの髪、虹彩はライトブルーで、肌は白く、いかにも寒いロシアの大地で育ったという感じの女性です。
まもなくして、宿泊予定のホテル「ノボテルモスクワキエフスカヤ」に到着し、フロントで手続きを済ませたのち、谷崎さんの乗用車ラーダでモスクワ市内を案内してもらうことにしました。
アルバート地区、ヨーロピアンショッピングモール、クレムリン、ビジネス街など、モスクワが初めての上杉さんにとって、非常に興味深い街並みであり、赤の広場に屹立するカラフルな聖ワシリイ大聖堂の偉観をじかに見ると感動もひとしおで、愛用のライカD-LUXが大いに活躍してくれました。
それらの画像は、逐一、ロンドンに待機するわたくしのスマホに送られてきました。
ヨーロッパの国々のどこにも見られないような巨大なヨーロピアンショッピングモールのいくつかを歩くと、つくづく実感するのは、ロシアの大国意識、巨大が好きであるという大国主義であり、否が応でもヨーロッパの真の主人はロシアであるという強烈な主張が伝わってくる、と上杉さんがメールをしてきました。
しかし、どことなく違和感を受けるのは、ショッピングモールの中に並べられる品々の嗜好や質が物足りないという気持ちを払拭できないのも事実でした。
寒いモスクワにも拘わらず、一六〇〇万人が住む世界都市の一つですから、その都市の中に威容を見せつける設備を設け、国内外に国家の威信を示すというのでしょうか。
ロシアはどこまでもロシアであり、大国意識を示すお国柄であるという上杉さんのメール内容です。初めてのモスクワの街並みを見ながら、そういう思いを上杉さんが抱くというのは、モスクワの街が持つ歴史的な重みと現代の巨大建造物に見るモダニズムの融合からくる威容のゆえなのでしょう。
宿泊ホテルへ戻って、谷崎夫妻と上杉さん、それにアランの四人で、ホテル内のグルメバーでの夕食を取ることにしました。
夕食を取りながら、上杉さんが語ったことは、やはりロシア経済の状況が大きくは上向かないということであり、石油や天然ガスに頼った経済であるため、原油価格に依存する体質を脱却するような経済の産業構造を構築できないかぎり、根本的にロシア経済の未来は見えてこないというものでした。
特に、二〇一四年二月から三月にかけての争乱、すなわち、ウクライナのクリミア自治区をロシアが奪還するという軍事的争乱が起きて以来、国際社会からの経済制裁が強くなり、ロシア経済はずっと厳しい状況にあると話してくれました。
上杉さんは非常に敏感な性質であるため、次のように谷崎さんに問いかけました。
「谷崎さん、いろいろと話してくれるのはいいですが、大丈夫ですか。こんなオープンなグルメバーのところで、ロシアのネガティブなところを解説したりして・・・。」
「大丈夫です。四人とも日本語で話していますし、リラックスして、何でもない雰囲気で話していますから、まったく問題ありません。
深刻な雰囲気で、いかにも疑わしい話をしているようだと、目を付けられるかもしれません。しかし、基本的に、共産主義体制下のソ連と、現在は違いますからね。」
「そんなものですか。つい、心配になる性質(たち)な者ですから。」
「それよりも、ロシアとアメリカの関係こそが冷戦時代と冷戦後の期間を通じて、相変わらずと言いますか、もっとも緊張感のあるものだと思いますよ。
米ソ冷戦でロシアはアメリカに敗北を喫したとは言え、冷戦後、ロシアの復興を遂げた暁には、やはり、アメリカよ、見ておれ、といった意識が強いのではないでしょうか。」
興味深く聞き入っていたアランが口を挟んできました。
「基本的に、ロシアとアメリカの関係は、今、タニザキさんが言ったようなことだと思います。
どういうわけか、アメリカは伝統的に、中国に甘く、ロシアに厳しいという側面があります。アメリカが毛沢東の中国と組んだのも、ソ連打倒の戦略から包囲網を形成する目的が中心でした。そしてソ連は崩壊した。
ソ連の共産主義が崩壊してロシアになったのだから、アメリカとロシアはもっと仲良くしていけるだろうと当然考えられるわけですが、そう簡単ではない。冷戦後の世界情勢の複雑さは、まさにそのことが大きな原因の一つです。」
「なるほど。私は北大で学んでいた時には、主に、スラブ研究と言っても、政治面よりも文化芸術面に関心を注いでいたものですから、政治的に掘り下げていくことはあまり得意ではありません。
ロシア語の勉強も兼ねてよく読んだのは、ドストエフスキーとトルストイそれにツルゲーネフでした。ドストエフスキーの『罪と罰』が愛読書でしたから、かなり暗い性質になったのかもせれません。いや、もともと、そうだったのかな。」
聞き捨てならないと思ったのか、ナターシャが話に加わってきました。
「上杉さんがおっしゃいました、ドストエフスキー文学は暗い、というお話は否定しません。ドストエフスキーだけでなくほとんどのロシア文学が暗いと言えば、暗いと思います。
私が太宰治文学にのめり込んだのも、彼の作品が暗いからだと思います。明るいのはあまり好きじゃない、どちらかと言えば、暗い作品に惹かれてしまう、そんなところが私の中にあります。」
「しかし、夫の私から言いますと、妻のナターシャはそれほど暗くはありませんよ。むしろ陽気で明るいと思います。よく笑います。ナターシャは、自分は暗いなどと言っていますが、私から見れば、全く暗いとは思いません。
上杉さんが暗いロシア文学ということを話されたので、妻のナターシャは話を合わせるために、そう言っているのかもしれません。
ロシア人は政治体制の中での国民性と一般的に個人として付き合うロシア人の性格と言うことでは、違うのではないでしょうか。ナターシャと結婚してそんなことを考えるようになりました。
ただ言えることは、ロシア人は待ち合わせ時間などあまり厳守しませんね。仕事もそれほど日本人のように勤勉な取り組みをしないように見えます。時間の厳守、勤勉な仕事ぶり、この日本人の特徴は、ある意味では、世界基準から見れば、むしろ特殊なのかもしれません。
世界に出てみて、日本人の特殊性がはっきりと分かるようになりました。」
「なるほど、谷崎さんの話を聞いて、強く感じることは、もっともっとロシアのことを勉強しなければなりませんね。
特に、共産体制下のソ連と共産体制崩壊後のロシア、何が変わったのか、何が変わっていないのか、よくよく研究しなければ・・・。
その国の情緒とか国民の性格とか、本質的な問題のように感じます。ロシア語が話せるということだけではダメですね。」