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【レポ】たからづか能/紅葉狩

以前の記事で、能の紅葉狩から派生し歌舞伎や文楽においても作品化され、大衆に広まっていったことを紹介した。
この能→歌舞伎→文楽という変遷の過程で成り立ったのが「平維茂が持っている太刀=小烏丸」という描写であり、室町初期に成立したとされる能においては小烏丸だとは言っていない

筆者も改めて「能の紅葉狩では何がどう異なっているのか」を確認するべく、2022年9月2日23日(金・祝)、宝塚ソリオホール(兵庫県宝塚市)において上演された「たからづか能」に足を運んだ。
非常に面白い違い、そして能の奥深い意図的な表現に触れたのでレポート記事として紹介したい。
なお、「たからづか能」では紅葉狩だけでなく、小袖曽我・隅田川・棒縛も上演されたが、今回の記事では割愛させていただく。

会場で展示されていた、池内波重氏作の絵画

紅葉狩(鬼揃)

あらすじ

紅葉の美しい山の中、女たちが紅葉を愛でながら酒宴をしているところに、平維茂の一向が通りかかります。女に酒を勧められた維茂は、美しい舞を見ながら酔って眠ってしまいます。女たちは維茂の眠りを見すまして姿を消します。
維茂の夢の中に八幡宮の末社ノ神が現れ、女たちが鬼神であると教え、太刀を授けます。目を覚ました維茂は、雷鳴とどろく中、襲いかかる鬼神を激しい戦いの末に切り伏せるのでした。
(公演リーフレットより)
※公演は観世流のもので上演されている。よってここに取り上げる紅葉狩は観世流に基づく

歌舞伎との違い

歌舞伎の演目と比べ、ストーリー上で大きく異なっているのは
①紅葉が色づく山中、という表現であって舞台が戸隠山だとは言っていない
②八幡宮の末社ノ神という説明であって、武内の神などの名前はない
③鬼神という表記のみであり、鬼女だとは言っていない
④歌舞伎のように華やかな演出や殺陣はなく、後半のバトルシーンも非常に端的
といった部分である。

①戸隠山の描写
①舞台が戸隠山だとは言っていないという点について、信州(現在の長野県)にある戸隠山であることは謡本うたいぼん(台本のようなもの)に記載があるが、成立の当初は場所を明言しておらず、上演中の唄にも出てこない
時雨の降る、美しい紅葉が楽しめる山。しかし鬼が出るような人里離れた場所……ということで後世に「戸隠山」の名前が挙がったのかと思われる。
ちなみに、歌舞伎では舞台にふんだんと紅葉のセットが使われるが、能は中央に山を模したテントのようなものが置かれるのみ。この中で女から鬼神への衣装チェンジが行われる。

②末社ノ神と山神
さらに、歌舞伎においてとても愛嬌のある山神も、そういった名前はなく②八幡宮の末社ノ神としてしか説明がない。
※場合によっては武内の神として表現しているケースもある
驚いたことに、歌舞伎の武内の神は童子(子ども)の姿をしているのに対して、能の末社ノ神は翁(おじいさん)で仙人のような雰囲気である。

特徴的なのは、この末社ノ神は能楽師ではなく、狂言師が演じるという点だ。「能楽」というと「能」と「狂言」という2つを指すことになるが、能楽師=能、狂言師=狂言というように、専任の演じ手の意味合いになる。つまり、能楽師は狂言を演じないし、狂言師は能を演じない
よって、末社ノ神が維茂にお告げをするシーンは、能の合間にありながら、全く別演目の形式を取っているということになる。演出の効果として、「維茂の夢の中、現実とは違う世界の話」ということを示しているのだろう。

③神様と女
③鬼神という表記のみであり、鬼女だとは言っていないという点は、ちょっと些細なことかもしれないが、この能の演目中では少なからず神様として描いているということになる。しかし使用している面は、女性の恨みや妬みを表す「般若」であることに注目したい。
歌舞伎では個人的な恨み、女の形を取って維茂をたぶらかすことをピックアップしたような演出になっているが、能においては非常にサラリとした表現となっている。

④演出、殺陣の描写
①でも述べた通り、舞台上のセットに紅葉を散りばめた歌舞伎に比べ、能は中央に山を模したセットが置かれるのみで、シンプル・イズ・ベストといった形をしている。
これは途中の姫君の舞にしても、後半の見どころである鬼神を倒すシーンでも同様で、特に鬼神を倒す場面も4(鬼):1(維茂)という構図であるのに、かなりあっさり退治してしまう
例えば、雷鳴を例える如何にも不穏なドロドロドロ……といった音響、あわや取り殺されそうな気絶した維茂の演出。これらは歌舞伎独自のものであり、能の紅葉狩には登場しない。
他にも多々違っている場面があるため、ぜひ気になる方はご覧いただきたい。

「三角形」の表現がヒント

先述の通り、能の演出は非常に端的・シンプルな構図である。しかしながらよくよく見てほしいのは衣装の部分だ。
姫君たち(実は鬼神)4人の衣装はそれぞれ紅葉や秋の花をあしらった豪奢な衣装。しかしよく見ると半襟や帯に「三角形」が見える。また、並ぶ時も上から見ると三角形の構図をしていることに気が付くだろう。
演目によって、4人~6人と姫君の数が変わる場合が多いが、それでもこのルールは踏襲されている。

この「三角形」は「鱗」を表しており、彼女たちが人間でないことを示している。解説によれば、人が鬼に変化する途中に蛇身じゃしん(蛇のような姿)になると信じられていたからだそうだ。
歌舞伎だと、娘が蛇になる「道成寺」系の演目で使われている。

鱗紋・鱗模様については、現代では厄除け・魔除けの意味合いになってくる。余談だが、現在放送中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時。彼の家紋もまた鱗紋だ。

「観客に見られて完成する」能の魅力

歌舞伎の後に能の紅葉狩を鑑賞していると「どうしてここまでシンプルなのか?」と思うだろう。これは、能というものが「観客に見られて、観客の想像力を経て完成するもの」という大前提があるからに他ならない。観客が見ることで成立する芸能とされる。
解説していた能楽師も、このことが能を難しくさせていると語っていたが、それがまた魅力でもあるだろう。観客の解釈1つで全く違う表情を見せてくれるのだ。

そう考えると、歌舞伎にも複数パターンある「紅葉狩」という演目も頷ける。刀が小烏丸であったり、山神が子ども姿になったり、髪を振り回したり……これらは作者が解釈した紅葉狩を演目に仕立てたわけだから、(言い方は変だが)能の狙い通り派生している作品だということになるかもしれない。

さいごに

なぜ、紅葉狩という演目が長い時間を経て、今なお見どころたっぷりの演目に仕上がっているのか。筆者は気になって今回は根本たる「能の紅葉狩」を鑑賞した。能が観客の解釈に委ねる、余白の多い演目であったからこそ、その後の歌舞伎や文楽、そのほかの派生作品にも広がったのであろう。
そう考えると、能は非常に懐の広い芸能なのかもしれない。

しかし、他の伝統芸能と比較すると分かりにくい部分が多々あるのも非常によくわかる。そういったときは、解説やあらすじを一度チェックしてから鑑賞すると、新しい発見があって楽しめるはずだ。

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