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「発達障害者に必要なのは愛嬌」なんて言説は滅びろ


発達界隈において、「発達障害者に必要なのは愛嬌」という言説をよく目にします。


最近は、障害者の就労支援をしておられる専門家までもがSNSで「障害者は愛嬌を身につけよ」と発信しておられるのを目にして、私は白眼をひん剥きました。(比喩)



はっきり言って私は

「発達障害者に必要なのは愛嬌」なんて言説は滅びてしまえ

と思っています。

障害の理解されやすさ、配慮の受けやすさが愛嬌なんて不確かなものに左右されている状態では、人権的に成熟した社会とは言えないからです。




 * * *




正直な話をすると私自身は学生時代、愛嬌で生きのびてきたタイプです。

発達障害の人は中退や留年をしやすいと言われている中、私がストレートに大学まで卒業することができたのは愛嬌があったからと言っても過言ではありません。

自分で言うのもあれですが、私は「人に親切にされやすいタイプ」でした。
あらゆる場面において同級生に助けてもらったり、教員からも出来ていないところを大目に見てもらったりして、どうにかやってきました。

私が戦略的に「人に親切にされやすいタイプ」の人間となるよう振る舞ってきたのもありますし、
性別が女であることや、親しみやすい印象を与える顔立ちをしていることもプラスに働いたと思います。




けれど、私はこれからの若い発達障害民に向かって「愛嬌でサバイブせよ」なんてアドバイスはできません。


それは素のパーソナリティを削る行為だからです。


じわじわと長い月日をかけて削られていったパーソナリティを取り戻すのは容易なことではありません。

この間、ある人から「多動ちゃんって、アホのふりしているところあるよね」と指摘されて私はドキッとしました。
今でもつい無意識でやってしまうほどに、アホっぽく振る舞う癖が身についてしまっているのです。
愛嬌でサバイブしていた時代の悲しい名残です。

誰彼構わず愛想良く振る舞ってしまう癖も取れません。
そのため「自分に好意を持っている」と異性から勘違いされてしまうことがよくあります。


長い月日をかけて身につけてしまった振舞いは、なかなか変えられないのを痛感する日々です。




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「発達障害者に必要なのは愛嬌」という言説を聞くと、私は平成時代に女性誌で流行った「愛され女子」「愛されOL」というワードを思い出します。 

今以上に男女平等に課題のあった当時、
男性に愛されて結婚、男性の経済力におんぶしてもらって生きる、というのが当時の女性の幸せルートとして示されてしました。

愛嬌という手段で健常者に媚びることが指南されている障害者の姿が、当時の「愛され女子」に重なります。

健常者と障害者が平等ではない現状は、社会として解決していかなくてはならない課題です。
個々人で、愛嬌なんて不確かなものでどうにかすれば済む話ではありません。




 * * *




障害への理解が十分に浸透しているとは言いがたい現時点において、愛嬌を戦略的に使うことは発達障害者のサバイバル術の一つではあります。

自身のパーソナリティが削られるデメリットと、社会生活を円滑に送るメリットを秤にかけて、後者が勝つならば、その方法を選択することもやむをなしだと思います。

でもそれは本来であれば、健常者と障害者の平等が確保された社会であれば、あなたの人間の部分を削ってまですることではないのです。





私たちは発達障害である前に人間です。

もともと寡黙な人や、ちょっと偏屈なキャラの人も中にはいるでしょう。

あなたが「愛想だの愛嬌だの求められるの何だよ、生きづらいなあ」と感じているならば、間違っているのは社会のほうです。

あなたはあなたのままで尊重されるべき存在なんです。
このことを忘れないでほしいです。


私はあなたにあなたのままのキャラでいてほしいのです。
どうかあなたの色が、社会の要求によって塗りつぶされないで。あなたの人間の部分まで障害に侵襲されないで。


人間の部分を削って生きてしまい、取り戻せなくなってしまった私からのお願いです。





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