自由と自立と愛
本記事は2019年10月30日に大西つねきのFacebookページで投稿した記事の再掲です。https://www.facebook.com/tsune0024/posts/2745259502229096
自由には責任が伴うと言いますが、私はそもそも責任なんてものが存在するとは思っていません。自分の行動の結果を自分で負うというのは責任ではなく単なる因果応報、自然の摂理です。本人がそれを知れば、学べば良い話で、それを知った上で何を選択するかというのは完全に本人の自由です。そこで言われがちなのが責任論ですが、これは大抵他人が言います。それで責任が取れるのか?と。
私が言いたいのは、いやいや、そもそも自然界で責任なんて生じませんよということです。全ては起きるだけ、善悪の概念も責任の有無もなく、それは人間が勝手に作って人に負わせているだけのことです。本人がその摂理を理解していれば他人がとやかく言うことではないし、理解していなくても、事象はただ起きるだけのことです。こんなことを言うと子どもに対する親の責任は?とか言う人がいますが、親が子どもに抱くものは責任ではなく愛です。仮にそれがなく、責任だけ負わせても悲惨なだけです。愛ある人の自由意志に従って育ててもらった方が遥かに幸せだと思いますし、私が政治家として考えるのは、そういう本当に「自由で自然な思想」に従って制度設計をしたらどうかということです。もちろん選ぶのは皆さんですが。
さて、少し脱線しましたが、ここからが本題です。私が今回言いたいのは、自由に本当に必要なのは責任ではなくて、自立ではないかということです。自由な人はこう考えます。「自分は責任を果たすために行動するのではなく、自分がやりたいから行動する。ただ、それには結果が伴い、その結果を予測した上で、ベストと思われる行動を”やりたいこと”として選択する。」ただ、その予測の精度は経験や智慧によって高められたとしても、必ずしも当たるとは限りません。最大の不確定要素は他人です。人のことはコントロールできないからです。
だからこそ、自立が重要になってきます。私はあらゆる行動を、まず自分一人で今すぐできることをベースに組み立てます。今すぐと言うのは、今すぐできないことは全て他人の要素を含むからです。究極のそれは自由に考えること。それなら例えばマンデラ大統領のように、牢獄の中ででもできます。私はそこに全ての自由の種があり、自由な思考なしに自由な人生はあり得ないと思っています。だから宗教などは、これからの人類には不要だと思います。その中に息づく哲学は良いとしても、それを信じる信者(自分で答えを出さずに教えを求める人々)を必要とする構造は、依存と支配の構造に他ならず、一番大事なところにボタンのかけ違えがあるからです。
2011年、私がまず一人でできることとして始めたのは本を書くことでした。それを2013年に書き終わりましたが、予測に反して(笑)大して読んでもらえなかったため、今度は動画を作り始め、2016年には一人で街頭に立ち始めました、、の、つもりだったんですが、また予測に反したことが起きました。初日から每日千葉から横浜まで手伝いに来る変人がいたのです。その名は形部さん。この方、のっけからこう言い放ちました。「来たいから来てます。来たくなくなったら来ません(京都弁)」。自由人ほどコントロール不能な不確定要素はありません。でも、この瞬間、私の活動の原型が作られたのです。すなわち、参加したい人が自由意志だけで集まってくる活動、それ以外の人を無理やり集めても大きくはならないだろう、と。
この活動スタイルは、通常から考えたらあり得ないかもしれません。あまりに非効率的で時間がかかりそうに思えるからです。確かにそれから8年間、カタツムリのようにしか進みませんでした。でも、ここに来て急激に形になり始めたように見えます。以前とは比較にならないほど多くの人たちが好きで手伝ってくれるようになりました。ただ、ここでやはり発生しがちなのが責任問題です。多くの人を巻き込めば巻き込むほど責任が発生するという、あれです。いやいや、違います。みんな本当に自立して自由意志でやっていることなら、誰も相手に責任なんて要求しません。なぜなら、そこには依存がないからです。これだけやってあげているんだからもっと頑張れとか、世の中変えてとかいうのは全部依存であり支配です。相手も結果もコントロールできないというのに。
多分、私たちの間に本当に必要なのは責任ではなく愛です。愛と敬意を持って相手に接するということですが、それも個人レベルの愛を超越し、もっと大きな愛を意識すれば、自分や目の前の相手よりも優先すべきことがあり、接する時間を持たないことすら愛であると気づくでしょう。また、その全ての決断において個々人は完全に自由であり、愛さえあればその全てを祝福できるはず。だから裏切りなんて概念も不要です。それは相手に何かを求め、依存し、さらには自分を正当化するから起きる感情です。そして、大きな愛が全員を包み込む時、全ての人の決断は是であり、この世はその無数の決断が織りなす巨大なコラージュであるとするならば、それをどうにかしようというのは不遜であることがわかります。そもそも世の中は変えようとするものではないということです。
では、なんで政治家などやっているのか?それは、仕組みを変えるアイデアを持っていて、それを実現するためです。変えるべきは仕組みであり、人ではありません。しかし、それを実現するのが無数の人の決断や行動である以上、人が変わる必要があったとしても、変えるのではない。変えるのは自分だけ。あとは自分の行動の結果、他の人がどうそれを見てどう判断してどう行動するかになりますが、そこで鍵になるのが「自由と自立と愛」。私はそれだけで十分だと思います。ゆっくりとカタツムリのスピードでしか進まないかもしれませんが、急ぎたいのは自分がその結果を見たいから?皆のためになるから?皆のためは誰が決めるの?あなたが正しいの?
ちょうど一年前、どうやら私は以下のガンジーの言葉を投稿したようです(Facebookが教えてくれました)。まさに「利己的でない」ということが重要だと思います。少なくとも一年前から私はのんびりしていたようですね(笑)。でも、逆にそこから急にこのカタツムリは走り始めたようです。面白いですね、世の中って。
「善いことはカタツムリの速度で拡がる。善いことをしようとする人は利己的ではなく、急がない。それが人々に浸透するのに長い時間がかかることを知っているから。」〜マハトマ・ガンジー
“Good travels at a snail's pace. Those who want to do good are not selfish, they are not in a hurry, they know that to impregnate people with good requires a long time.”― Mahatma Gandhi
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