ネガティブな出来事にはギフトがある
最近改めて自分の人生史を振り返る機会があった。こんな風に書くのもなんだけど,私の人生はそこそこに波乱万丈だと思う。
今ついてもらっているコーチにも「トップクラスの激動人生」と評していただいた。これまでに沢山の方の人生史に触れている人の言葉には説得力がある(笑)
5年ぶりの人生曲線
コーチングでは自分自身と向き合うために自分の人生史を書き出すワークをすることがある。
自分にとって人生のポイントとなる出来事をピックアップしつつ,その出来事が自分にとってポジティブ(+)な出来事かネガティブ(−)な出来事かというのを評価しながら曲線の形で書き出していく。5年前にも一度このワークをやったのだけれど,今回久しぶりにやってみたら,5年前はなにも考えずに「マイナス」に分類していた経験が,「ん?これって実はプラス?」と思い直したり,分類に迷うものが出てきた。その当時は辛かったけど,あとから振り返ってみれば良いこともあったし,結局はプラスなんじゃないか…という感じだ。ただこの場合は,プラスと解釈しているのは当時ではなく今の自分なので,そのままマイナスの出来事として置いておけば良いことになる。
ただ,ここ1年くらいは,どんな嫌な経験でもあまり時差なく自分にとって「プラス」だと捉えられるようになってきた感覚があり,この感覚のまま生きていけたら自分には一生不幸なことは起きないのではないか,という気持ちにすらなる(やや大袈裟)。
人生に起こる出来事にはプラスもマイナスもない
そもそも,人生で起こる出来事には「良い」も「悪い」もない。
自分がその出来事をどう解釈して意味付けをするかだけ。
例えば,私は過去に2度離婚歴があるけれど,1度目はそれを「結婚の失敗」と捉えてネガティブに分類していたけど,2度目の離婚は「自分自身の解放」と捉えた。なんならプラス一つじゃ済まないくらいの3プラスくらい。ちなみに,2度目の離婚の時には,元夫が逮捕されたり,それによって子どもとふたりで急な転居を余儀なくされたり,仕事にもいけなくなったり…と普通に考えたらネガティブな出来事が山のように起こっていたけど,当時の私には一連の出来事が「なかなか夫と別れる決断ができなかった自分に神様が授けてくれたギフト」だと思えた。
だから沢山の人に心配をかけてしまったものの,私自身はちっとも不幸じゃなかったし,なんならものすごい解放感と自由を手に入れた喜びに溢れていた。
とは言え,できることならもう少し穏やかな平穏な人生を送りたかった,と思わないでもない。
自ら不幸を引き寄せる人生
よくよく過去を振り返ってみると,自分の身に降り掛かった激動の出来事は全て,自分自身で引き寄せていた。
過去の私は,幸せに生きることを自分に許可できず
「苦労すればするほど,自分が成長する。だから,できるだけ苦しい道を歩かなければ自分がダメになる」
という結構強めの信念を持って生きていた。
だから,常に大変な思いをする道を敢えて選ぶという生き方をしていた。もちろん無意識的にやっていた部分もあるけれど,自分がしんどい状況になればなるほど「苦労は買ってでもしろ。この苦労こそが自分を成長させているんだ!」と自分を鼓舞しながら生きてきた感じだった。
そして,しばらく平和で安心安全な時期が続くと,自分からその平和を壊すようなことをしたり,敢えてその流れを断ち切って,自分から苦労する環境や状況を引き寄せにいく,ということを繰り返していたのだった。
今考えると結構ヤバい。なんというか狂った修行僧のような生き方。
私が心の師と仰ぐ友人は,会って早々に「君は破滅型の人だ」と言った。
その当時はよく意味が分からず「失礼な人だ」なんて思っていたけど,今ならその意味がじゅうぶん分かる。
ギフトを探す生き方
実際のところ,今でも苦労することが悪いとは思わないし,しんどい経験をすることから得られるものは多い。
NLP(神経言語プログラミング)を学び始めて出会った大好きな言葉の中に,
「失敗はない。ただフィードバックがあるだけ」という言葉がある。
「成功では人は成長しない」
と,仙台育英高校の須江監督も甲子園で優勝した後言っていた。
人は幸せな時,なぜ自分はこんなにも幸せなんだろうか,とじっくり深掘りしない。
たまたまうまくいっただけかもしれないし,自分が手にしている幸せは誰かが不幸になった結果かもしれない。幸せなるのに理由はいらない。だから瞬間的な喜びや一時の幸福感をしっかりと味わい自分のエネルギーに変えられたらそれでいい。
一方で,ネガティブな出来事には必ず「理由」がある。なぜなら全てが「起こるべくして起こっている」からだ。なぜ今このタイミングで自分にこんなことが起こったのだろう,とじっくり考えると必ずそこには答えがある。答えを探さずにそのまま「不運だった」と終わりにすればそれでおしまい。
理由と答えを探すことは,何でもかんでも前向きに明るく捉える,という作業とは全然違う。自分が経験した辛さや苦しみの中から「自分が今受け取るべきメッセージを探す」という結構しんどい作業。ただでさえ辛いのにこれ以上向き合いたくない,と思うのが人間。でもそのしんどさを超えた先には必ず「ギフト」がある。
急に自分の身に災難が降りかかった,という受け身の人生ではなく「今の自分にはこのギフトが必要だったからこそ,敢えて経験しにいったんだ」という能動的な生き方にチェンジすることができる。
我が子の不登校にもギフトがある
子どもの不登校にだってちゃんとギフトがある。
私が中学生の頃不登校になった時は,連日繰り返される両親の喧嘩に疲弊して,完全に登校するエネルギーが枯渇してしまった時だった。同時にそれまで障害を抱えた妹の方に手がかかりっきりだった母親に甘えたかったという気持ちもあったかもしれない。結果的に,あの時学校を休んだことによって,母が私と向き合う時間を作ってくれたことが私にとって何よりのギフトになった。
母は,私の体調のことは心配していたが,私が学校へ行けないことについては何も言わなかった。成績のこととか,このままで良いのか,なんてことは一言も言わず,ただ「具合が悪いなら病院へ行こう」と,病院に付き添ってくれた。仕事も相当忙しかっただろうし,今思えば有休だってほとんど使い果たしていたのではないだろうか。でもそんなことは一切こちらには言わず学校へ行かないことではなく,純粋に身体の心配だけをしてくれた。
そしてエネルギーが回復した私は,2ヶ月ほどしてまた学校に戻った。
気をつけなければいけないのは,不登校になったという事象に対して「何が悪かったのか」「自分の育て方に原因があったのでは」とか「過去」にフォーカスしていると親子共に先に進むことができなくなってしまう。
探すべきは「今この経験が自分に何を伝えようとしてくれているのか」ということ。そしてそれが見つかったら,自分と子どもがこれから「どうしたいのか」を考えていくこと。
まとめ
「ネガティブな出来事が起こった時こそギフトを探す」
この作業を丁寧に毎回ちゃんとやっていくと,何かが起こっても自分自身で対処できるサイズの「不幸」しかやってこなくなる。(そもそも悩みや課題というのはその人の処理できる大きさでしかやってこないけど)
自分自身でその経験をどう扱ったら良いのかわからないとか,出来事そのものに自分がとことん振り回されてしまうことも少なくなる。
ちなみに,ネガティブな出来事が起こった時にそこでギフトを探さずにスルーしてしまうと,後々また形を変えて「ネガティブな出来事さん」が自分のところに「お届け物でーす!」とギフトを届けにやってきちゃうので,ちゃんと受け取った方が良いです(経験者)
それも置き配の時代なのかな。
では。
Mariko