低次の私と、高次の「私」という概念がある。
そして、この低次の私(私とあなた)とは、身体と同一化しているものである。
さらに、高次の「私」には、二つのタイプがある。
一つは、すべて有る「私」。
もう一つは、すべて無い「私」。
「私はすべてである」が真我的であり、「すべてがない」が無我的なものだろう。
そうして、低次の有ると無い、高次のすべて有るとすべて無い。
これらすべてを捨て去るのが中道であり、解脱となる。
つまり、真我と無我はプロセスにおいては異なるように見えるかもしれないが、真には同じことだと言える。
世間で生きる人にとっては、無我は理解し得ない。世間に依存して、その中に囚われているからだ。
世間で生きる人の有るもあり得ない。世間の人にとっての私とは身体だから。
つまり、世間の(低次の)私は成り立たない。
「あらゆるものが有る」とは、涅槃に対しての確信であろう。
「あらゆるものが無い」は、無常や無我への智慧だろう。
それらは、人格の完成までは、筏の役割を果たすのだろう。
そうして、最後にはすべてを捨てていく。
ちなみに、仏教での無我と非我との混同は、それぞれに注意が必要になる。
無我が行き過ぎると涅槃(実在)への否定や無関心に陥り、非我が行き過ぎるとどこかに我を残してしまう。
最終的には、無我でも非我でもなく、中道であり、これらもまたプロセスの一部である。