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新しい時代に向けて

人間が考える、倫理や道徳には限界がある。

人が決める基準は時代によって、場所によって変わる。それも時の支配者の意向次第になる。

古代中国の思想に、「老子の道家」と「孔子の儒家」の二つがある。

どちらもとてもいいことを言っているように見えるが、その本質は全く違う。

今のアジア地域が特に少子高齢化が進んでいるのは、この儒家から発展した儒教による考え方や価値観が時代に合わなくなってきているからと言われます。

ではこの二つの思想は、どう違うのかというと

まず「孔子の儒家」は
「礼」と「仁」という道徳や規範を重んじた、君子としての理想的な生き方を説き、「人が考える倫理観」がベースとなっている。

また「中庸」という考え方があり、これは、静的、自分はやじろべいのように真ん中に立っていて、どちらにも傾かないようにすることを良しとしている。

それは何事も極端にはなってはいけない考えがあるので、自分の考え方をそこにもってはいけないということにもなります。

一方「老子の道家」は
「道(タオ)」という基本概念を理論的に吸収したもので、

「無為自然」道は常に無為にして、しかも為さざる無し

すべての作為や人為的なものは捨てて、自然の摂理である道に従う生き方がいい。その方が何事もスムーズによい方向へ向かっていくと説いている。

「道」とは万物の根源であり、「気」というエネルギーを司る働き、法則のこと。宇宙の摂理そのもののこと。
そして、儒家の「中庸」という考え方に対して
何事も一つの極から一つの極へとダイナミックに変化していく中で、常に動きながら均衡をとることがよいと考える。

また、聖徳太子が言った「和を以て貴しとなす」も仲良くするのは、相手に同調するではなく、争いにならないために力の強い人にただ服従するわけでもなく、「自分」というものをしっかりともった上で、どう繋がっていけるかが、これからの時代は必要な能力になる。

「こうでなくてはならない」

一時代に作られた、倫理、道徳、価値観、思想、それを時代にあった形に変化させていくことが必要な時代に入ったと思います。  

道家がそのままいいわけでもなく、儒家がいいわけでもない。

一度これまでのものを頭から外し、何が正義かではなく本質に戻り、今の世の中を真正面から受け止め、未来にどんな価値観に変えていくことが、人間だけでなく、地球に存在する全ての命においてよいことなのかを考えていく必要があると本当に最近思います。

それは、嫌でもこれから考えないといけなくなるので

先に考えるか、どうしようもなくなってから考えるのかの違いだとも思います。

しかし、それは、人を変えることはできず、またよって社会をいきなり変えることもできない。

今できることは、一人ひとりが、本質を生きるしかないんだと思います。

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