普通であることを受け容れる
ぼくは「フツウ」だった。
これまで自分は
自分が普通であることを嫌悪し、
自分は特別なんだとどこかで思いたがっているところがあった
(今もすべてが消えたわけではない)
話は少し変わるが、
「陽キャ・陰キャ」という言葉を最近の若者は使う(ジジィか笑)
「アウトドア派・インドア派」と言ってもいいだろうし、
「動的・静的」と言ってもいいだろう(性的、じゃないよw)
男たるもの、友達がたくさんいて、豪快且つ派手に遊んだり、
ケンカの武勇伝があったり(古いかな?笑)
お金を稼いでなんぼ!とか、
とにかく精力的であること(いわゆるオラオラ系?笑)が良いのだとどこかでずっと思ってきた部分がある
女性も皆、そんな男のほうが好きなのだとなぜか信じて疑っていなかったり。笑
「つまらない人」「物足りない男」と思われるのがずっと怖かった
しかし実際の自分は、
コーヒーやら酒やらを飲みながら大河ドラマを見るのが好きだったり、
(真田丸と龍馬伝に至ってはもう何度見たことか笑笑)
カフェで一人読書したりなんでもない時間を過ごしたりするのが好きだったりする
ゆったりと文章を書いたりするのも好きなことの一つ♪
そんなインドアでいわゆる普通な自分に対して
「もっと人と関わったほうがいいのでは?」とか
「新しいことや色んなことに挑戦したほうがいいんじゃない?」とか
どこかでダメ出ししているようなところがあった
自己分析をすれば
6(ないし7);3(ないし4)で
「静」の気質が自分は多いだろうと認識している
時と場合にもよってその出方は変わる
日常のちいさなことを丁寧にやってみてると
ちいさな幸せや満足感を感じることが近頃はある
それは上で書いたよう自分で「こうあるべき」としていた男性像とはかけ離れていたりするし、
特別なことではない、いわゆる普通な時間を過ごしている普通の人間が自分なのだ
自分の器の大きさや何に幸せを感じるのかといったことは
誰かや何かが「こうあることが幸せだよ」と言っていたものとは関係がないのかもしれない
自分本来の姿が見え始め、その見えてきた自分自身を自分で受け容れること
ありのままの自分の姿を見た人たちが
私のことを「普通」と呼ぶか「特別」と呼ぶかはその人たちに任せるより他にない
それよりも
自分が自分を受け容れ(普通である自分も)
“自分の人生の主人公”であればいいのだと思う
それが自分自身が真に満足のいく人生になっていくような気がしている🍀
※写真は友人からの提供です🍁