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美術の授業と刃物

 一学期も中盤。

 いつも、新学期にお話しする道具の話をします。
 まとめとしてこんなことするといいよという美術教育のご紹介ってなものではなくて、「これこれ試したがどれもこういう問題と効果があるようだ」と言う報告です。あしからず。

 怪我することを考えて刃物を使わせたく無い親御さんたちはたくさんいます。
 怪我して帰ってきたら、(教師の管理不行届ではないか)とすぐに思いますよね、、、、、
 対応策として学校側も面倒だからなるべく持たせないでくれ、ガードがついている彫刻刀にしよう、とおっしゃるところあります。

 いろんな意味で「そうだなぁ」って思います。

 クソ大変な業務の中やってるんですし、「刃物の前に手をおかない」ということすら知らないで暮してこれている人相手に危険性を話すのは本当に大変です。40人くらいいるクラスで3人くらいはカッターの刃がどこについているのか知りません。刃に親指を置いて押してしまいます。刃物がどんなものかから学校で教えないといけない世の中になってるんです。

 そんなことしてまでカッターで鉛筆削らなくていいわ、とか、別に道具に正しい持ち方も何も無いわ。やりやすい使い方が正義、と言う人はいるので、その方達には昨年こちらの記事を書きましたんでこちらもどうぞ。

 というわけで、結論から言うと、私はこんなふうに大変いろいろな意見を受けつつ凶器にもなりうる刃物の授業をします。そのかわりめちゃくちゃ厳しく、「きちんと扱いなさい」で教えます。

 それは人が、その道具をどんなものとして扱うのか、それはその人の心次第ということだからです。その心を鍛えるためにもちゃんと向かい合っていかないといけないと思ってます。
 きれいなこと言ってると思いますけどこう言うのちゃんと言わないといけない時代になっちゃった。だって、「刃物なんて危険なもの持たせないでください」とかかなり多くの人たちが言い過ぎるんです。食事を作るのにも、包丁を使わないといけないのに、包丁のどこで切れるのか知らないままの子供がじゃんじゃか学校にきます。そりゃ「飯炊き?!?魚?さばけないから加工品買ってくる。食事の準備?雇えばいいじゃない」になりますよね。

 さて、こっからが本題。というか授業の実際。

 子供たちは人がやっている作業を見て道具の使い方を学ぶのですが、一斉授業だと人がやってる作業を間近に見るのは難しいのです。
 遠いところで先生が道具を持ってるなぁ程度にしか見えませんw
「みえな〜い!みえな〜〜〜い!」と声があがります。結局各机回ってお手本を示し、正しく口頭で理解できてるか、削っている様子を見て真似できるかをチェックする流れになります。
 見えない上に、各机でお手本を示しても、俺からは逆さまだとかよく見えないとか騒がれます。40人をグループで割ると10班だとしてそのごたごたを10回繰り返すわけです。

 だったら動画で間近に見れるようにしたらいいのではないか要領いいわ、ソーシャルディスタンスとれるし、と、刃物を使っている動画を用意して個人個人が持っているタブレットにリンク先を飛ばしました。
 これなら自分目線で用意できているし苦情も出ないだろうと。
 ところが、画像の中の人の真似は難しいと、、、、。できるようになってもなんかすぐ忘れちゃうと、、、、、 約一年後鉛筆を削ってみたらできない生徒は何人もいました。「もう忘れちゃったの??」なんて、絶対に言えなかった、、、、、、だってあたしもyoutubeのメイキングってやった気になるだけで頭に入ってこないもん。

 さて、
 アナログとデジタルどっちも一長一短。どっちがすごいとかはないんです。ただ、補い合い生徒も教師も今よりか楽になればいいと思います。その工夫はしていかないといけない、、、、

 ということは、、、、「身体的で言語化されないもの」「動画としてフレームに入ってこない情報」みたいなものは一体なんなのか、そしてそれらが実は表現活動や人間として大切な「真似る」という行為にどれだけ直結してるのかみたいな感じかなと。思うのです。

 改めていいますが「真似る」は「学ぶ」の第一歩です。

古語では「学ぶ(まね・ぶ)」で、「まねぶ」はまねをする、見習って行うが本義

『全訳読解古語辞典』三省堂第三版

 動画を見ても真似られないというのは、フレームに入っていない筋肉の動きや音が大事ってなことなんだろうな。
 あと、時間が惜しくて(どうせだらだら長い動画なんて見ないんですよw私もですけど)2倍速とかにしがち。
 よく職人さんたちが「息遣い」だとか「間」だとか「一緒にいると伝わるビリビリした空気」がどうとか言いますが、それもあるんでしょうね。緊張している人と同じ空間に集まる時の空気って嫌。でもそれってみなさんの大嫌いな同調圧力でもある。同調圧力だとか空気読めっていうのは、学ぶ時にはめちゃくちゃ情報量あるってことなんですよね。空気読めないのは読む気がしない、学ぶ気がないっていう意味にもやっぱりなるんですよね、、、、、状況にもよりますが。

 というかんじで、今んとこ、
「同じ空気」「同じ時間(の拘束)」「人間全体の筋肉の動き・熱」がキーかな??(逆にいうと、内容のない、課題としていかがかなと思われるものでもやった気にさせるという無意味な作業を増やす地域活動みたいですね、、、、なんかちょっと間違うとブラックなセミナーや洗脳演説;;;;
あ、彼らはわかってやってるのか;;)

 これら、情報量あるけれど、だからこそすごい嫌悪感もあるというか。
 で、それ以外の方法で学びたいと言うことになって、、、、、それこじらせると「こんなもの学ぶ必要あるんですか?」となる。(ふりだしにもどる)と。
 ということは、、、、、
 コレらの落とし所はじゃぁどこかという話になるんです。
 みんなと、対面で授業やってみてよかったでしょう?となるための「一手」はなんなんだろう。

 とことんまで話す。ってのはただ疲弊して諦め合ってるだけだから嫌だ。やっぱ結局実際にやってみる、しかないんだろうか、、、、、美術だったらやってみようよで済ませられるけど、、、、、

 それでも肥後守(ひごのかみ)で鉛筆を削らさる学校や授業の取り組みは崇拝されてて、、、でも押し付けるのは嫌い、効率悪い!っていうクラスタも同居していて不思議な世の中です。

 単純に、「鉛筆削りで削った鉛筆だとデッサンしにくいからカッターで芯研ごうぜ」となればいいだけなんですけどね。またいうんですよ「デッサン?そんなことする必要なくね?」ってw
 親御さんも含めて、何もしたくないんだろうな、みんなww

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