『鉄道小説』という切符を手に、人とまちの記憶をめぐる旅へ
同じ駅、同じホームで毎日電車を待って、もう12年が経つ。
その間に大学生になって、社会人になって、職場もいくつか転々としたけれど、私の町には路線が1本しかないので、ホームはずっと変わらない。
たいがい満員電車である。順番抜かしも、リュックの背負いっぱなしも、歩きスマホも、座り込みも、ボックス席の酒宴も、大声の通話も、開閉時の扉前占拠も、荷物の場所取りも日常茶飯事。
毎日乗っていれば、それどうなのと問いたくなる行動は必ず目に入ってくる。とはいえ、電車を使わねば生活は成り立たないし、ひとつひとつのマナー違反にイライラしていてはキリがないから、いつしか感情を持ち込むのをやめた。駅が視界に入ると、すっと心を閉じる。周りの人から意識を遠ざけ、降りてようやく一息つく。
かつては小さな町の閉塞感から連れだしてくれる憧れの存在だったのに。いつからロマンは薄れてしまったのだろう。
そんな時に出会ったのが、『鉄道小説』(乗代雄介、温又柔、澤村伊智、滝口悠生、能町みね子、交通新聞社)である。鉄道開業150周年を記念して、書き下ろされた短編小説のアンソロジー。本屋で平積みされていて、目が離せなくなった。
今どき珍しいスリーブケースに入っていて、電車の窓を思わせる四角い穴から、収められた表紙が覗く。人差し指で背を押しながら慎重に引っ張り出す。表紙は水彩で点々と彩られ、紫から橙へグラデーションになっている。スリーブに貼られた『鉄道開業150年』のシールには昔懐かしい改札鋏の切り跡が。裏表紙が表にくるようケースに戻せば、今度は緑と青のグラデーションが穴から覗く。なんだか電車が折り返すみたい。
つい自分の本棚に並んでいるところを想像して頬がゆるむ。そうそう、電車もそこにあるだけで、わくわくするものだった。
名を連ねる執筆陣もいい。「生活に根差して、人生や歴史を紐解いていく」ような「ひとつの物語の中で複数の生の存在を感じさせてくれる」ような作家ばかり。『JR時刻表』や『旅の手帖』など正統派の鉄道情報誌を扱う交通新聞社と組んで、読者をどんな場所へ連れて行ってくれるんだろう。
鉄道、の2文字に久しぶりの高揚を覚え、そのままレジという名の改札を抜ける。物語を渡る旅へ、いざゆかん。
乗代雄介「犬馬と鎌ヶ谷大仏」
つるつるの加工が施された表紙は、ゆっくりめくると、めりめりと音がするほど分厚い。小学校の図書館のラミネートされた図鑑や児童書を思い出す。そのなつかしさはこの作品にとてもよく似合っていると思う。
舞台は千葉県鎌ケ谷市。かつては江戸幕府の馬を飼う牧場であり、土手や水飲み場などの旧跡が多く残る。戦時中に演習線として敷かれた路線はルートを変えて、現在の新京成線となり、その駅前では高さ1.8メートルの鎌ヶ谷大仏が迎えてくれる。
主人公の坂本は25歳。ファミレスのバイトをしながら実家で暮らしている。日課は小学生の頃から飼っている愛犬ペルの散歩。そのコースは年を重ねるごとに短くなる。
ある日、天袋から小学校の授業でつくった発表用の模造紙が出てきた。鎌ケ谷市の歴史について調べたもので、その発表は普段目立たない坂本が唯一クラスメイトから注目を集めた瞬間だった。卒業後も学校に飾られていたはずだが、彼が留守の間に同級生の松田さんが届けてくれたらしい。彼女は同じグループのメンバーで、発表中に機転を利かせて彼を主役に仕立ててくれた。模造紙との再会を機に、もう一度思い出をたどるべく、ペットカートを購入。ペルを乗せ、鎌ケ谷の町をめぐる――
就職、結婚、出産と周りはずんずんライフステージを進んでいく。愛犬は老いていく。町は発展とともに姿を変える。自分だけはとどまっているつもりで、人生の砂時計は着実に下へ下へ落ちている。どれだけなつかしくても、どれだけ戻りたいと願っても、時間の流れにあらがうことはできない。
だけど、時が進み続けるのも悪いことばかりではない。ゆっくり町を歩いてみれば、土手に、池に、大仏に、駅に、たしかに紡がれてきた人の営みが見えてくる。教科書には載らないかもしれないけれど、私たちが生きた証はその道に、その町に、余さず刻まれるはずだ。
時を経ることで失われるもののさびしさと、宿るもののあたたかみがこの作品には詰まっている。
温又柔「ぼくと母の国々」
横山勇輝が初めて覚えた日本語は、デンシャ、だった。3歳で両親とともに台湾から渡り、13歳で日本国籍を取得。苗字は黄から横山に変わった。
42歳になった彼は、薬剤師をしながら女優の芽衣と東五反田のマンションで同棲している。母は父が亡くなったあとも帰国はせず、恵比寿のマンションに住んでいるが、ある日、話があると呼び出され――
歴史には懐の深さもあるけれど、時に人と人を隔てる壁にもなる。日本はかつて台湾を植民地化し、彼らに日本語を押しつけた。たとえ故郷が他国であっても、国籍を取得することを”帰化”と呼び、日本の苗字を与え、日本人らしくふるまうよう強要する。
親しんだ名前が変わること、自由に故郷に帰れないこと、母国の誇りと目の前の生活のどちらも守らなければならないこと。想像できていなかった葛藤の存在に気づかされる。
この作品は、私たちが築いてしまった壁の存在を思い出させる。だけど、そもそも日本人、台湾人とひとくくりにして、壁のあちらとこちらに分けることはできない。生まれた国に誇りを持つ人もいれば、移り住んだ先によりアイデンティティーを感じる人もいて、愛着の強さはグラデーションだから。国への思い入れにも関わり方にも国境線はない。ひとりひとりに唯一無二のルーツがある。互いのあわいを尊べたら、はだかる壁もちょっとは溶かすことができるだろうか。
澤村伊智「行かなかった遊園地と非心霊写真」
フリーの文筆家の私は怪談作家としての道を切り開くべく、怪談収集を始めた。が、そう簡単に話を持っている人など見つからずあきらめたその矢先、居酒屋で山田というサラリーマンに出会う。同じ関西出身で意気投合し、不思議な体験を聞かされる。
山田の小学生の頃の楽しみは、友人たち数人と中山観音駅、当時の中山駅に集合し、阪急電車で宝塚ファミリーランドに遊びに行くことだった。ところが、人当たりのいい彼はクラスメイトに距離を置かれている島崎という同級生になつかれていた。山田が参加すれば、島崎もついてくる。友人たちの間に流れる気まずい空気で、このままだと次は誘われなくなると察知。島崎に内緒で目的地をボウリング場に変更、中山駅に置き去りにする提案に乗って――
この短編集で唯一、西日本が舞台の物語とあって、ようやく土地勘を発揮。作品全体に漂うノスタルジックな気分がよく分かる。
私も2000年代初期の遊園地閉鎖ラッシュで一番身近な遊園地を失った。楽しかった記憶と喪失感が入り交じって、セピア色の映像とともに思い出される。
そして、阪急電車は関西人には特別な電車。生活に寄り添いながら、デパートや遊園地、劇場とささやかな非日常に導いてくれる。そのマルーンカラーも躯体の無骨さを払拭し、郷愁を掻き立てる。
夢とともに失われた遊園地と、日常と非日常を往来する電車。ふたつの実在するアイテムが不思議な物語に説得力を与える。なつかしさは恐怖へ姿を変え、加速する物語に思い出ごと飲み込まれてしまった。
滝口悠生「反対方向行き」
なつめは亡き祖父の家の手続きのため、宇都宮へ向かう予定だったが、寝坊。ちょうど渋谷駅のホームに入ってきた湘南新宿ラインに滑り込んだところ、反対方向の小田原行きに乗ってしまう。戻る気力もなくなり、そのまま終点まで流されていると、晩年の祖父の姿がよみがえってきたり、愛想を尽かして出ていった祖母に思いを馳せずにいられなくなったり、奔放な叔父との会話が思い出されたり、記憶も未来から過去へ、反対方向に走り出す――
旅先や出張先でよく電車を間違える。おかげで見知らぬ駅で降りることとなる。失態に焦り、道順に迷い、取る行動のひとつひとつに選択を迫られる私を背景に、長年しみこんだ足取りで構内を歩く人たちがいる。私が初めて見たこの景色も、だれかにとっては日常の一部。自分が主人公の人生しか生きられないから忘れてしまうけれど、目に映るひとりひとりにその人が主人公の人生がある、と不意に認識させられる。
電車もまた「電車の中」と描写してしまえばそれきりだけれど、スマホをいじっているあの人も、うたたねしているこの人も、どこかの駅で降りて、私の知らない生活を営んでいる。電車は今日も人生という物語をいっぱいに乗せて運んでいく。
能町みね子「青森トラム」
池袋のマーケティング会社で働いていた亜由葉。クリエイティブを発揮できない環境に焦りと不満を覚え退職を決意。心機一転、青森に移住したBL漫画家の叔母のもとで居候することに。どうやらLGBTQなどの性的少数者の権利をアピールするイベント「プライドフェスティバル」の運営にも関わっているらしい。自由に生きているように見える叔母が選んだ土地でなら、自分らしさを見つけられるかもしれないと考えたのだ。
とはいえ、すぐに仕事を探す気にもなれず、青森市内を走る路面電車「トラム」に乗ってまちめぐり。毎日、一日乗車券を運転手から購入し、お互い顔を覚えるほどになっていく。そのうち亜由葉にはひとつの仮説が浮かんできて――
市内の観光地や繁華街をめぐる「青森トラム」。これ1本で観光しつくせるなんて、方向音痴になんて良心的。ぎっちり予定を詰め込んで遊びまくるもよし、ぼんやりまちを眺めながらしばらく揺られるもよし。青森に旅行するならぜひとも乗ってみたい!と意気込んでいたら、能町さんが空想で敷いた鉄道なんだとか(トレたび「今和泉隆行(地理人)×能町みね子 小説「青森トラム」の空想地図をつくる【1】路面電車が走る青森の街とは?」より)。創造力に圧倒されると同時に、手が届かないとなるとなんとももどかしい。
冒頭で電車に感情を持ち込まないと書いたけれど、旅情にひたりながら本を読みつつ揺られる電車は好きだ。スマホをつけたら電池がなくなっちゃうし、書きものをするスペースはない。本を読む以外”なにもしなくていい”時間は快い。でもそれって、普段は”なにかしないといけない””なにもしないとだめになっちゃう”プレッシャーを感じているということ。自分だけの個性を見つけて表現しないとと焦っている。
本当は自分らしくあることに、そこまでこだわらなくてもいいのかもしれないとこの作品を読んで思う。自分探しが目的になってもしんどいだけ。気持ちが向かうままに生きて、受け止めてくれるまちがあれば、もっとのびのび生きられるんじゃないだろうか。作品の中では、まちも人もいきいきと描かれている。これほど魅力的な空想が生まれる場所、青森。ますます気になる。
線路が敷かれ、駅舎が建ち、町ができ、人が集い、営みが生まれる。鉄道はひととまちの始発駅だ。
これまで降りることなく通り過ぎてきた駅も、路線図の太字になっていない駅も、数万、数億の物語を運び、思いを吸収しながら、ここまで利用し継がれてきた。
本を閉じると、最寄り駅の見慣れた景色にもほんのり愛おしさがわいてくる。
◉乗代雄介、温又柔、澤村伊智、滝口悠生、能町みね子『鉄道小説』(交通新聞社)
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