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WEBライターは自己表現できないから嫌。本当に?
「エッセイストになりたい!」
最初は息巻いていたものだが、何者でもない私が「私のこと」を書いても、生活にすぐには繋がっていかなかった。
そうは言っても、私は「書く」を基盤に生活を考えていきたいと思っている。その仕事は私のなりたいエッセイストだったりライター、小説家や翻訳家、ジャーナリストや記者もそうだろう。この中で誰でも思い浮かびやすいのは「ライター」かもしれない。
先月から私はクラウドワークスに挑戦している。
ここには、何者でもない私でもできる仕事が多くある。「仕事を探す」の欄をクリックして、できそうなものに応募して仕事をしている。今のところ私が達成できたのは、アンケート入力と、数百字〜数千字程度程のライティング案件のみである。応募の段階からの時給で換算したら100円前後だと思う。
かなしい——、とは思わずに何とか今の自分を理解して、落とし込もうとしている。
アンケートは1回こなしても5円ほどなため、これだけで生活していくことは厳しいし、物量を積み上げても大きな金額にも経験にもなりそうにない。暇を埋めるのには適しているだろうが、これに関しては今の私には必要ではないと思い、現在は選択肢から外している。
問題はライティング案件である。
応募したり、こなしては見るものの私はずっとムズムズしている。テーマを与えられ、それに沿って書き、クライアント様の希望に合わせた体裁に整えたり、ソフトを使ったりしていく。
当然「何でも好きに書いていいよ」なんて案件はない。エッセイストや作家、小説家として生計を立てられているような方達も、ある程度「こういう風な内容で書いてほしい」と指示があるはずである。何者でもない私が、何を贅沢を言っているのだと思うだろうが、ほんの少しだけ説明させてほしい。
私は多分、情緒表現や比喩表現がとても好きなのだと思う。書くのも好きだし、読むのも好きだ。
「嬉しい」と一言とったとしても、そのまま書くのではなく、私は「何気ない景色の端で、一輪の花を見つけたときのよう」みたいに書きたくなってしまう。そういう自分に、正直に言うと少し酔っているのかもしれない。私のnoteで書いてきたものはほとんどエッセイで、今までもたくさんそういう表現を織り交ぜてきたつもりだ。それを繰り返し模索し、自分なりの表現をすることがいつしか、貝殻から真珠を見つけたときのような楽しさになっていたのだ。
と言っても、クラウドワークスで現在私が任せていただける案件は、そうはいかない。
「ここからここまで、すべていらないので修正をお願いします」
ずしりと届いたメッセージを見て、私は放心状態であった。そもそも、私は書き始める前から情緒表現などは避けようと思っていたし、個人の感想を入れないように注視していたつもりだった。だけれど、実際はどの文章も赤を入れられてしまった。
例えば私が「心の底から充足感が湧いてくる」と記せば「嬉しい、で十分です」と言われ、くそうとも思わず普通に納得した。そうだよなあ、そうだよなあと思いながら書き直していく。
私は今までこのnoteを始める前から、ブログで10年ほどエッセイや日記を自由に書いてきた。別に今更プライドなんてものはないが、自分のわずかでも誇れる強みを、一つひとつ仕舞っていくような作業は控えめに言っても哀しかった。
何時間と文章と向き合い、納品し続けた。
書く仕事の難しさを何度も痛感している。これこそ私の文章は、時代とともにAIに奪われる仕事なのではないかと思うと、大切な花瓶を割られたような気持ちになった。
それでも生活していくために、真剣に向き合い続けた。私は私の人生を前に進めるために。指示に従い、納得感を何度も携えながら書き続けていく。本を読んで勉強したり、メディアに載っている記事の細かいところまで参考にした。
そうして書いていくうちに、気づいたことがある。
基本のルールのようなものを守っていくと、何かを説明したり、紹介する文章であったとしても、ひとつひとつのシンプルな言葉の意味を、より深く考えられるようになった。
「嬉しい」をまた例に出そう。そこに至るまでの経緯をわかりやすく記すよう心掛けながら、そのシンプルな「嬉しい」まで運んでいく。どうして嬉しいのか、何が嬉しいのか、それが明確なだけで、短文であろうと相手の胸に届くような文章を描ける。それは別に、どこにでもある文章とは異なると私は信じている。過程は「自己表現」のようだった。
「修正ありがとうございます」
クライアントさんから完了のメッセージを受け取れた時、とてもほっとした。もしかすると、その言葉は諦めかもしれないし、賞賛かもしれない。そうした答えのなさも、また答えなのだと私は思う。読み手がAIではない時点で、私たちには書く意味が存分にあることを知った。
私はこれからも、書く仕事に懸命に向き合っていく。ライターとしても書いていきたいし、noteの場では思う存分、表現豊かにも書いていきたい。どちらも研磨することで、より「私」という武器が力強くいられるように。そんな道に気づくことができた。
「見つけてくれてありがとう」
一輪の花は、そう私に話しかけている。
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