高次元の存在の本質に迫る。空即是色、中今、ノンデュアリティ
3次元の世界を認識できるのは、3次元に存在している意識ではなく、それより上の4次元以上の高次元に意識が存在しているから。
例えば、"流れる川"に意識が存在していると仮定したとき、川そのものは常に流れ続けているので、「自分自身が流れている」という現実を認識することができない。その認識が可能なのは、川を眺める存在(動いていない・止まっている存在)である。
この仮定における"川そのもの"は、3次元を生きる「私(a)」のことであり、また、"川を眺める存在"が、高次元から3次元に跨って存在する「私(b)」という意識(自己や3次元世界を客観視する意識)である。
この2つの「私」(a)と(b)は、別のものでありながら分けることができない非二元的(ノンデュアリティ)な存在である。
"同じものではないが、それらを分けることもできない"という、まさに空即是色そのもの。
3次元を生きる「私(a)」を認識しているもうひとつの「私(b)」が存在していることは、「私」という意識が、高次元から3次元に跨って存在していることの証明となる。
「私」という存在の本質は、(a)=(b)かつ(a)≠(b)であり、限りなくイコールに近いノットイコールであり、(a)≒(b)のようなものと言える。
以上のことから、何かしら外的な存在(龍、神、ハイヤーセルフetc)と繋がろうとすることは、反対に、高次の「私」という意識からどんどん遠ざかることになる。それこそ顛倒夢想である。
自己の客観視が極まれば、高次元の世界は毎分毎秒、常に"今ここ"に存在することを体感できる。それが神道の"中今"にも通じるのではないでしょうか?