(55)景初・正始年間を想像する
伊都國の王について、「魏志」は「丗有王皆統属女王國」と記しています。これは「邪馬台国論争」の争点となっている部分です。最初の3文字は「世に王有り」で一致していますが、問題なのは「皆統属女王國」の6文字です。
「丗」を「世世」と解釈して、伊都國に何代か王がいたのだけれど現在は「女王國に統属」しているのか、伊都国の王は何代かにわたって現在も「女王國を統属し」ているのか、という問題です。
前者であれば、景初~正始(237~249)の時点で伊都國に王はいなかったことになりますし、後者であれば伊都國の王が倭人世界の実質的な王だったことになります。
漢文(中国古文書)の文法や読み方を熟知していないので、「A統属Bの読み方は、BがAを統属す、に決まっている」と言われたら明確な論拠を示して反論することはできません。「AがBを統属す、じゃダメなんですかね」と言うのが精一杯なのですが、もしその読み方が可能なら、「伊(神の意志を伝える聖職者、治める人)の都」の意味がクローズアップされます。
そこから見えるのは、伊都國の王の統治下に女王がいる、ということです。倭人の世界は伊都國の王に直属する「自女王國以北」の8か国と、女王を共立する「其餘旁國遠絶」の22国(邪馬壹國を含む)で構成されている、とも読めてきます。筑紫平野の北半(那珂川・御笠川流域)と南半(筑後川流域)といったイメージでしょう。
実は「邪馬壹國」の名が出てくるのは旅程記事の最後、「南至邪馬壹國女王之所都」の1回しかありません。あとは「女王國」「女王境界」もしくは「倭人」「倭」「倭國」です。女王がいるところが邪馬壹国、女王を共立している南の倭人コロニー22か国が女王國、伊都國が率いる北の8か国が倭國、女王国+倭國+狗奴國が倭、東海に展開する全体が倭人という認識が示されているように思えます。
卑彌呼女王はすでに高齢で人前に出てくることがありませんでした。にもかかわらず「魏志」は「卑弥呼は鬼道に仕えていた」と記しています。帯方郡の諜報網は、卑彌呼女王ないし邪馬壹國連合の倭人コロニーが太平道の分派であることを把握していた可能性があります。
小説的な解釈を加えると、2世紀末から3世紀初頭にかけて、太平道ないし五斗米道の流れを汲む南倭グループは、公孫氏燕國と関係が深い北倭に圧力をかけ始めます。吉野ケ里遺跡の殺傷人骨に見るように、局地的であれ、激しい戦闘が行われたかもしれません。
しかし勝敗は決着しません。
緊張関係の継続は双方にとって何ら利益がありません。そこで南北陣営は南倭の巫女を王に推戴し、伊都國の王が巫女に仕えることで和睦した、というのが『語漢書』が伝える倭国大乱の実態でした。
燕國の滅亡を見て、伊都の王はいち早く魏帝国と手を結びました。対して江南の呉帝国と連携すべきと主張する狗奴王は、南倭連合から離脱します。独自の戦闘力を持っていない邪馬壹国は、卑彌呼女王の死で仲裁力を失ってしまいます。景初・正始年間(237~249)、こんなことが起こっていたと想像されます。
口絵:御笠川河口付近(福岡市比恵橋から)
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