(183)諸国の王が醸した緊迫の時
雲部車塚古墳(丹波市商工会)
6世紀初頭、ヤマト王権の男系王統が途切れ、女王の統治下で軍事的統率力が弱まった――として(仮定1)、息長氏と大伴、物部、許勢といった在郷氏族が越王家の王を共立した(仮定2)、しかし越陣営は大和陣営を圧倒する軍事力を持っていなかった(仮定3)。最も古くさかのぼれば498年から526年まで、ヤマト王権はそのような状況にあったと推測されます。
ワカササギ大王が嗣子なく没したとき、群臣筆頭の大伴金村は真っ先に「足仲彥天皇五世孫倭彥王在丹波國桑田郡」(タラシナカツヒコ天皇の五世の孫ヤマトヒコ王、丹波國桑田郡に在り)と候補を挙げました。「五世孫」は後世の皇統継承則ですし、タラシナカツヒコ(仲哀)は物語上の人物です。倭彦王はオホド王を導き出すための"当て馬"でしょう。
丹波國桑田郡は現在の京都府亀岡市を中心に、京都府の南丹市、京都市の右京区、左京区、大阪府の高槻市、豊能町などの一部にまたがるかなり広い地域でした。篠山市には全長158mを測る雲部車塚(くもべくるまづか)古墳があって、「丹波道主」の名が伝わっています。6世紀初頭にあっても、若狭と琵琶湖を結び、但馬・播磨をにらむ要衝を抑えていたのです。
越の三国のオホド王が大王位をねらうことができたのは、息長一族が越前から若狭を結ぶ海路と陸の要衝である木ノ芽峠を抑えていたからに違いありません。丹波邑國の陣営と連携していた可能性もあると思います。丹波、近江、越前のラインは、のちの時代も天下の趨勢を左右する要衝として機能しています。
ただ、オホド王ないし息長一族が数千の軍兵を連ねて木ノ芽峠を南下し、木津川口に陣を張って大和の陣営に王権の譲渡を迫ったかというと、どうも具体的なイメージが湧きません。また諸國の王たち――吉備の吉備氏、美濃の牟義都氏、尾張の尾張氏、伊勢の大鹿氏、紀伊の紀氏など――は、このときオホド王の行動をただ傍観しているだけだったのでしょうか。
6世紀ヤマト王権は、諸国物産の交易市場を管理運営することで成り立っていました。ちょっと時代が違いますが、纒向遺跡から、ほぼ全国といっていい各地の様式を備えた多数の土器が出土しているのがその証左です。諸国の王は大王の起居ないし朝廷に出入りできる場所に館を構えていたでしょう。大使館、領事館といったほうが実態に近いかもしれません。
通貨という客観的な価値評価基準がない時代ですから、諸国の王は地域の利益代表として、取引条件を有利に導く責務がありましたし、地元商人の保護や物資輸送の安全を確保する必要があったはずです。王都に詰めている時間帯がそこそこあったでしょう。
そういう中で大伴、物部の2大在郷氏族にとって、オホド王は自分たちの言うことを聞いてくれるし、上手に振舞うことができる都合のいい存在だったのでしょう。ところが諸国の王は納得せず、一触即発の緊張感が高まった。
秀吉竹馬の友で仲裁役である前田利家の死後、秀吉子飼いの七将(福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政)が脇坂安治、蜂須賀家政、藤堂高虎らと組んで石田三成を討たんとし、それを察知して三成は伏見の家康に保護を求める――という歴史ドラマが重なってきます。オホド王が河内國樟葉で即位したのはそのような事情があったと考えると、難しい古文に辟易する古代史もそこそこリアルな映像を結び始めます。