(68)卑彌呼の鏡はいずこに
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(復元:日田市出土)
「邪馬壹國」の所在地探しで"決め手"のように考えられてきたのは三角縁神獣鏡でした。魏帝国が「特賜汝」(特に汝に賜う)として卑彌呼に与えた品物の中にある「銅鏡百枚」がそれではないか、というのが理由でした。
縁部の断面形状が三角形、鏡の裏面に神獣が浮き彫りになっているのが名前の由来です。ところが畿内域外にある古墳から続々と出土したため、魏からもらった鏡をヤマト王権内で型取りし、2次製品(仿製鏡)を地方の豪族(王)に下賜したのだろう、という推測が行われました。古代政権の成立プロセスを裏付ける物証とされたのです。
ところが、同じ形の鏡が華夏大陸にも朝鮮半島にも発見されていないので、これはこの列島の中で製作されたものではないか、という疑いが濃くなりました。また3世紀前期から中期の鏡は方格規矩四神鏡、内行花文鏡、画文帯神獣鏡と呼ばれている様式であること、3世紀前期に下賜された鏡なのに4世紀以後の古墳からしか出土しないことも疑問とされ、現在はあまり話題になっていないようです。
三角縁神獣鏡が「邪馬壹國」論争の真っ只中に置かれていたとき、「こういう鏡もある」と紹介されたのは、年号が入った鏡でした。景初三年の銘が入った三角縁神獣鏡、平縁神獣鏡が島根県神原町と大阪府和泉市から、景初四年鏡が京都府から、正始元年鏡が兵庫県から出土もしくは発見されています。発見というのは神社の宝物として保管されていた、というようなケースを指します。
景初四年は実在しない年号なので言うまでもないのですが、景初三年鏡も正始元年鏡も「倭人伝」を踏まえて、ぐっと後世の人が偽造して古墳の玄室に入れたり神社に奉納したことが分かっています。
これに対して青龍三年の銘を持つ方格規矩四神鏡が高槻市から、赤烏元年の銘を持つ平縁神獣鏡が山梨県市川三郷町から、赤烏七年の銘を持つ平縁神獣鏡が宝塚市から出土しています。「青龍」は魏の年号でその三年は西暦235年、「赤烏」は呉の年号でその元年は238年、赤烏七年は244年に当たります。
可能性として考えられるのは、
(1)倭人のコロニーは景初前に帯方郡とコンタクトしていた
(2)倭人のコロニーは呉ともコンタクトしていた
(3)後世に搬入された
ーーといったことでしょう。
「赤烏」鏡が狗奴國が呉帝国とつながっていた証拠となれば、小説的には面白いところです。
これとは別に、「魏帝国が卑彌呼女王に下賜したのは鉄の鏡だ」という説もあります。大分県日田市のダンワラ古墳(1933年鉄道工事で破壊)から出土したとされている金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(重要文化財)がそれで、裏面に漆黒もしくは群青の漆を塗布し、縁は金象嵌で蕨手文様が描かれ、金、銀、ルビー、トルコ石、メノウ、ヒスイ、水晶などの宝石が散りばめられていました。
重要なのは、日田市出土の鉄鏡と同じ造りの鉄鏡が、魏帝国の創始者である曹操の墳墓からも出土していることです。
魏帝国は銅鏡百枚のほかに、卑彌呼女王だけに最高ランクの鏡を1枚下賜したのではないかとの推測が働きます。