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北山あさひさん『ヒューマン・ライツ』を読む

溶けて水、凍って氷 ほんとうの素直を生きて社会にいたい

  自然の摂理なんて大げさだけど。でも上の句の
現象は世の中では当たり前と言われているもの
だろう。でもねぇ、溶けたら蒸発して消えたくも
なるし凍ったら霜になって儚くも
のさばってみたくなるのがひと、ってやつだ。
実際、当たり前とか普通なんてものは
見えるもんじゃないし、それぞれの価値観なだけである。そんな人の価値観ってやつ抜きでわたしは
わたしらしく、そう…。
人の築いた社会という枠の中の1人でありたいと
静かな祈りのような願いと思う。

と思ったのはワタクシごとだが少し前に価値観の
違いについて戸惑うことがあったから。
ちょうど北山さんの批評会に備えて改めて
歌集を読み直していたので改めて
〈人権とはなんだろう〉とか以前とは違う作品に
心惹かれたり、フレーズが染み込んできたり。
歌集というものの表情が変わることでまた
新たな読みの楽しさや喜びを味わえたように思う。

春のバス、とはいえみんな起きていて陽ざしのなかに髪赤くする

 だいぶ前だけど、美容師さんから日本人の髪の色素に赤があるとかで光りの加減によって赤っぽく
見えると聞いたことがあった。
初句で春のバス、と提示され読者は春のひかりの
中の乗客は微睡みの中で揺られているだろう、と
想起するだろう。しかし、いやいや。
乗客はみな起きていて、照らされた陽ざしに
髪は赤く映えているのだ。そのバスの様子の
スケッチが現実というもの、日常を写し出していて惹かれた一首だった。

サイダーのキャップを捻る瞬間に「元気だった?」と声がして 夏は

 夏空とサイダーのしゅわしゅわの取り合わせに
惹かれた一首。ペットボトルのサイダーのキャップを捻ると炭酸の抜ける音よりも早くあの子の声が
聞こえてくる(実際は聞こえなくても)
「最近どう?」でも「久しぶり」でもなく
「元気だった?」があの子なのだろう。
旧友との再会に夏が多いようなきがするのは
何故だろう。お盆、という風習や夏休みの存在が
あるからってのも理由のひとつなのだろうか。

大いなる編み針が空にあらわれて編み上げる白、予感、まばたき

 一読して浮かんだのは

大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも/北原白秋『雲母集』だった。

北山さんの〈大いなる〉という言葉の選び方には
物質的な大きさだけでなく目には見えない
存在感なども含まれているのではないだろうか。
私の見上げる空に、人のモノではなく神様のモノとしての編み針があらわれて、何やら編み上げてゆく。その編み上げる白とは何だろう。
空だから雲だろうか、編み針だから
白いマフラーかもしれない。
その白いモノから歌は〈予感〉〈まばたき〉
私の内面へ展開される。
予感は心の揺れで実際には起きてはいないことへの希望もしくは危機、まばたきは身体的な確かな心理状態。読みとしては自信が無いけれど。
空へと放ったボールが私に返ってくるような
心地がなんだか好きな一首だ。

ただ消えるだけではどうしてだめなのか墓参の人の麦わら帽子
 
最近は人の死後について〈墓じまい〉〈散骨葬〉〈樹木葬〉という言葉がわりと聞こえてくるようになり、日本のこれまでの習慣とか風習なんかも変化しつつあるので様々な価値観が生まれてくるだろう。私自身、お墓というものにこだわりが無い
というか自身としてはもしも、自身の死の予感と
いうものがあれば猫のようにひっそり消えてしまいたいと思っている。とは思うが人は一人では
死ぬことが出来ないのも分かるので変な話、
死の間際までその疑問は抱えてそうな気もする。
そう抱えつつも、自分が生きているうちは
お墓参りはきちんとする、夏は麦わら帽子を被り、冬はマフラーを巻いて。
そこは変わらないかもしれない。

他にも好きな歌はたくさん。

ぎんなんの翡翠の玉はみっしりと 約束に似た復讐もある

顔にふる影もぼんやりやわらかく辞めてもいいこと書き出してみる

ポプラ、全部無茶苦茶にせよと願いたる日々もありけり生きているから

北風のせなかを楓が通り抜け「変わらないねー」変わったよ、とても

零時 ひとり椀をあらえば椀のなか泡はわたしを見ながら動く

雨の這うガラスに街は歪みたりガラスの中の人間たちも

まだまだあるけれど。ここまでにしよう。




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