寂しい、との付き合いかた

なにを見ても寂しい
なにを聞いても寂しい
なにをしても、しなくても、ただ寂しい
そんな日がときどきある
それが今日


寂しいと感じることを、あまり良くないことだとおもって生きてきた

上手に寂しいを表現できないと、世間では、自立してない、未熟、不安定、メンヘラ、ドライ、そんなふうに言われたりする

そして、あまり上手に表現できない私には、価値がないとおもってきた


寂しい、は、わたしにとって恐怖でしかなかった

幼少の頃、おやすみと言って一緒に布団に入ったはずの母が、夜中に目を覚ますと、なぜかとなりに居ないことが度々あった

「まただ…」
真っ暗で、ひとりきりのしんと静まり返った部屋の中
とても心細くて寂しくて、恐怖で身体が硬直した
お母さん、と呼んでも、状況が変わらないことは、何度か経験してよくわかっていた

お母さんにまで置いて行かれたのかな
と、よくおもった

そんな精神的な恐怖から、歯を食いしばって、布団の中で小さくなってじっとたえるしかなかった

そうしていつのまにか疲れて眠っていた


そんなふうに、幼少の頃に、寂しいなんて言っても泣いてもむだなんだ、と蓋をしたからか
恋人ができて、寂しさやふあんを感じさせられると、恐怖の代わりに怒りが込み上げた

また同じ思いをさせられるんだ

そういう怒りだったのかと、今ならわかる


寂しい、との付き合い方がわからず
恐怖のあまり、人に寄り過ぎる
そして
恐怖のあまり、人から離れ過ぎる
これを繰り返した



しあわせを知っているから
さみしさも感じれる、とか
愛を知っているから
さみしさを感じれる、とか
よく聞くけど

でも
もっと根源的な
人間としてのDNAみたいなものが
寂しいと感じさせるんだろうなともおもう

わからないけど
ホモサピエンスとか
もっと前の量子力学でいうところの分子の時代からもあったりするのかな
と、想像したりする

寂しいきもちは昔から
詩人が空や月を見て詠んだり
蛙と池を見て詠んだりしてる

だから、寂しいというきもちになることは
DNAで繋がっている、DNAを生きている、ということでもあるんだとおもう

寂しいと感じることはなにもおかしいことじゃない

寂しい、は生き物である証



ふと思う
寂しさとの付き合い方がわからないのは、DNAの影響もあるのかもしれない

どこかの先祖が解消していたら
寂しさ解消したよ、のDNAが途中で組み込まれて
今生きる私たちも、そのDNAのおかげで、もう少し生きやすかったかもしれない



だから
これがあれば、あの人と一緒になれば、この夢が叶えば、寂しくなくなる、なんてことはない

家族がいても、パートナーがいても、恋人がいても、友人や仲間がいても
欲しいものが手に入っても
どんなに大きな夢を叶えても
寂しい瞬間はかならずやってくる



寂しいときは、じぶんから離れすぎたとき

じぶんを、視界の中に戻してあげよう

そして、
寂しい、をちゃんと言う経験を
寂しい、をちゃんと受けとめてもらう経験を
これからは、わたしがわたしにやってあげよう



寂しくなってもいいんだよ
その安心を、わたしがわたしにつくってあげる

いつか、大切な人に寂しいと安心して言えるように

いつか、大切な人の寂しいも安心して言わせてあげられるように



上手にできなくてもいい
そんな私とただ一緒に生きていく
ただ一番にいつも見ていてあげる
そして
いつか、そんな大切な誰かとただ一緒に生きていく



今日も
ただ安心したい
ただ愛を感じたい
ただ素直でいたい

愛を知りたい、思い出したい
育みたい
まずは、このこころのなかから
すべては、このこころのなかから



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