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初めての村上春樹と映画の苦い思い出。デ・キリコ的ひとりぼっち。


映画よりも本が好き。
忍耐強く私のことを待っていてくれるから。それに比べて映画はつれない。

小学校の高学年になり、私は友達と映画館へ行くようになった。小学生の私にとってそれは特別なことだった。何日も前から友達と計画を立て、持って行くものリストを作り、着ていく服も相談する気合いの入れようだった。それなのに映画は私に冷たかった。期待に胸を膨らました私をぺちゃんこにした。

映画が終わる頃、私は迷子になった子どもみたいになっていた。帰り道、興奮しながら映画について話す友達についていけない私はちょっと大袈裟に「良かったよね〜」と言ってその場を取り繕った。分かってないことを悟られないようにパンフレットを眺めてごまかした。

「本と私」だと分からなくなった所で立ち止まる事ができるのに「映画と私」だとそれができない。私が分からなくなってもお構いなし、終わるまで一度も止まってくれない。置いてけぼりにされてるうちに映画は勝手に終了し、終わりましたとばかりに明るくなって無慈悲に追い出される。ところてんみたい。容赦なし。

あの時の気持ちを思い出し胸が疼いた。楽しいイベントなのに、なぜか泣きたくなったなぁ。

みんなが分かっていることを一人だけ分からないというのは悲しい。頭が悪いと思うからだけじゃなく、孤独になるからだ。それは大人になっても同じなのだけれど、今の私はあの頃のように泣き顔になったりはしない。なぜなら、大人になった私は知っている。映画にはじかれて仲間外れにされているのは「私ただ一人」なんてことはないと。

あの時、勇気を出して友達に話せばよかったな。

そしたら「私も」って言ってもらえただろうか?

それとも、もっと孤独になっただろうか?

孤独と言えば、一度だけ本で味わったことがある。あれは小学校の夏休みだった。ママと一緒にいつものスーパーに行き、いつものように本屋さんがある4階へ上がって行った。サンリオグッズが売っているお店と本屋さんが入っているそのフロアーは私にとっての楽園で、住みたいくらい大好きな場所だった。

その日はマンガの立ち読みに夢中で、店員の妨害もどこ吹く風で読みまくっていた。ママから何回目かの「もう行くわよ」の声がかかる。私はいつものようにのらりくらりとかわしながら、怒られるギリギリまで粘っていた。 

「行くわよ」ママの声色が突然変わる。それを合図に「あともう少し」と言いたい所を我慢して本棚にマンガを戻した。私は途端につまらない気持ちになる。本棚から離れてゆらゆらとママの後を追いかけた。

ママの背中を見ていた私は突然思った。 

「本を買ってもらおう」

マンガを最後まで読ませてもらえなかったことへの腹いせか、ただ単に何か買って欲しかっただけかもしれないが、この頃はこんな事をよくした気がする。何かを買わせる事でママに勝ちたかったのだろう。

その頃の私は悪知恵もしっかり備わっていた。大人は子供に本を読んでほしいと思っている。先生も親もそう思っている。本は偉いらしい。マンガはなかなか買ってくれなくても、本なら喜んで買ってくれる。そこにはちゃんとした打算があった。

ママの背中を追いかけながら、目で本を探す。ママがエスカレーターに乗る前に本を決めないといけない。私は平積みに並んである一番手前にあった文庫本を一冊手に取るとママに駆け寄って「これ買って」と言った。その本を一瞥すると、私の思惑どおりすんなりお金をくれた。マンガならこうはいかない。

それは人生で初めての文庫本だった。それまで読書と言えば、児童書や夏休みの課題図書、たまに図書室で借りる本や学級文庫くらいだった。どれも字が大きくて絵が描いてあるハードカバーの本。文庫本は大人が読む本だった。

あの頃、私は圧倒的にマンガを読んでいた。私だけじゃなくクラス全員が「貸し借り」しながらマンガを夢中で読んでいた。それはあの教室の中では絶対で、マンガとテレビは私たちの世界の中心だった。

それに比べて文庫本は、まだ視界に入らないくらい私たちの世界のものではなかった。それなのに私はあの時、文庫本を手に取った。なぜだろう?たまたま?多分たまたま。でもその文庫本には何かがあった。私が一瞬で「これ」と手を伸ばしたのは、きっとあの絵のせいだと思う。

その本の表紙はカラフルで大人の本という感じでもない、けれど絵本やマンガとも違う。今まで見たことがないような不思議な感じがする絵だった。

薄ピンクの倉庫の屋根は赤い。その奥に紫色の山。山の中の建物からはたくさんの窓明かり。山吹色の空にはUFO。灯台の光はギザギザしている。可愛らしいが埠頭のまわりを青紫色の海が囲っている。赤茶のボラードには男の人が白いTシャツを着て、こちらに背を向けて座っている。手には小さな小さなタバコが一本。手前には青紫色の海の中に緑の空き瓶が一本浮かんでいる。

全体に色がぬめっと均一に塗られていて、影や余白、直線がない。カラフルな色とユニークな形は、子供が描いたみたいにわかりやすい。

『風の歌を聴け◎村上春樹』とその絵の上に書いてあった。このあたりも私が読めそうと思った理由な気がする。どこをみても難しそうな気配がない。それにその本は圧倒的に薄かった。

今回確認するために手に取ってまじまじと見てみた。楽しげなのに、なぜか楽しいという感じがしない佐々木マキさんの表紙。この絵に惹きつけられた小学生の私はなかなかセンスがある、と思って喜んでいたらとんでもない事に気づいてしまった。私は表紙に描かれている空に浮かんでいるものはずっとUFOだと思っていた。初めて目にした時からこの時まで何十年もずっと。でもそれは惑星だった。土星。間違いようがない土星。

えっ??

びっくりしたなんてもんじゃない。思い込みって凄い。それでピンときた。私がこの本を選んだ理由。この絵を見た瞬間、真っ先に私の目に飛び込んできたのはきっとUFOだったに違いない。あの頃はUFOブームで私も大好きだった。なんと言っても私は友達と一緒に夜空に浮かぶUFOを見たこともあったし、いつでもUFOには敏感だったから。あの頃の私にとって、空に大きく浮かんでるものは月かUFOだけだったんだろうな。大人になった私がアメリカのロズウェルのUFOミュージアムまで行ったのはきっと、この頃の気持ちを忘れていなかったからだろう。

しかし字が小さくて絵もないこの本をあの頃の私がよく読んだなと思う。普通なら買ってもらったことで満足して、そのへんに置きっぱなしにして終わるのに。

でも私は手に取って読んだ。
なぜだろう?

あの頃の私はもうすでに映画で味わったあの孤独な気持ちを知っていた。まだ子供だったけれど漠然と「知」に対する憧れみたいなものが芽生え始めていたのだろうか?

あの夏、私は初めて単行本を読んだ。

普段と変わらない夏休みの昼下がり、多分遊んでくれる友達が見つからなかったのだろう。暇を持て余した私は自分の部屋へ行くと気まぐれで買ってもらった『風の歌を聴け』を開いた。

本を読んでいる間、私は明らかに別の世界にいた。そこは今までの本の世界と全く違っていた。文字は読めるのに全然分からなかった。ただ分からないというだけじゃなく、なんというか、不親切でまるっきり優しくない世界だった。私は物語の中でずっと小突き回された。

私を一番混乱させたのは物語が全然流れていかないことだった。私の中で物語というのは「こういうもの」みたいな型があった。A があってB になってCになるみたいな。1の次は2だし、その次は3みたいな。だから安心して進んで行けた。それがこの物語には全然なかった。突然話が変わり、人が変わり、時間が変わる。ブツブツ切れる。その度ごとに、背中をつかまれて無理やり方向転換させられる。そんなことが終わりまで続いた。私が今まで読んできた本とは何から何まで違っていた。

文体も違っていた。知らない言葉を読んでいるようだった。カクカクしている。会話も変だった。違和感がずっとあった。というか、全体的に全部違和感だった。起承転結がなく、分かりやすい事件も起きず、何も解決せず、ゴールもなかった。読み終わった時にある満足感はなく、登場人物に感情移入することも当然出来なかった。とにかく何もかも分からなかった。

読み終わって意識が戻った時、部屋は暗くなっていて、自分がどこにいるのか分からなかった。暗闇の中、机や本棚、椅子だけが存在していた。その中にちっぽけな私がいた。そこはいつもの自分の部屋ではなかった。音もなく風も吹かない、匂いもない世界。私は1人だった。恐怖と焦りが急に襲ってきた。早く逃げなくちゃ。

いつでもその絵を見ると心がザワっとした。でも私は「そんな絵」だからとただ通り過ぎていた。なんか不安にさせる居心地の悪い絵。まだ画家の名前など知らなかった頃から、怖かった。

きっとあの頃のことを思い出していたからだろう。

今回デ・キリコの絵を見て思った。

あの時、私が迷い込んだ世界。

物と影だけが存在している、閉じられている無慈悲な世界。

私はものすごく孤独だった。

真っ暗な部屋でうずくまりながら、魂を抜かれたように私はしばらく動けなかった。どのくらい動けなかったのだろう。我に返ったのは、ドアの隙間から漏れている明かりが目に入ってきた時だった。その途端、夕ご飯を作る音や話し声が聞こえてきた。私は早くあっちの世界に行きたかった。テーブルの上にごはんが並んでいる、湯気やテレビのある世界に。

この本のことは誰にも言わなかった。言えなかった。私は『風の歌を聴け』をそっと本棚に戻し、なかったことにした。本を読むことは好きだったし、他の本は楽しく読めていたのに、この本には近づくことさえできなかった。

私が村上春樹と再会するのは高校生になってからだ。高校生の時に『ノルウェーの森』が大ベストセラーになった。クラスメイトが良かったよと言って、あの赤と緑の本を貸してくれた。私は信じられなかった。あの村上春樹を私の友達が読んだなんて。そんなわけないと思って、恐る恐るその美しい本を開いた。上下ニ巻一気に読んだ。

すらすら読めた。

信じられないくらいすらすらと。

読み終わって思った。 

「何これ?」

これは村上春樹ではない。少なくとも私の知っている村上春樹じゃない。あの時私をぺしゃんこにした村上春樹であるはずがない。じわじわと怒りが込み上げてくる。

「こんなに分かりやすく書かれては困る。これじゃまるでマンガじゃん!」

私はひとり毒づいた。

この分かりやすさは、あの敗北から5年が経ち、私が少し読書経験を積んだからなのか、または高校生になり色々なことが分かり始めたからなのか、それとも登場人物の年齢が私と近かったからなのか。もちろんそれもあると思う。もちろん。でもそれだけではない。そんな事だけが理由なわけがない。私は村上春樹に声を大にして言いたかった。

「この流れるようなストーリー、少し親切すぎやしませんか!」

そりゃ、私の友達が絶賛するわけだ。全然納得行かない私は「違うんだよ、こんなんじゃないんだよ」と友達一人ひとりに言って回りたかった。

このヒステリックなアレルギー的反応とは裏腹に、私はこの本を何度も何度も何度も読んだ。全ての登場人物が私の中で動き出すくらい。友達にこの本を返したのは高校を卒業してそのあと何年も経ってからだ。

ノルウェーの森を読んだ後に、私はあの『風の歌を聴け』を本棚から引っ張り出して読み、そして『1973年のピンボール』『ダンスダンスダンス』と読んでいった。その頃読書は私の寝る前の習慣になっていた。

あの日ぺちゃんこに打ちのめされた私は悔しかったし、恥ずかしかった。映画を見て理解できないことが恥ずかしかったように。誰にも言わなかったけれど、あの日私は焦るような気持ちで思った。

「本を読める人になりたい」 

私が薄い本を、薄い文庫本を探して読むようになったのはそれからまもなくだったと思う。

しかし、今回『風の歌を聴け』を久しぶりに読んで、よく最後まであきらめずに読んだなぁと思った。分かる所だけを拾ってつなげ、あとはただ文字を追っていったのだろうか。だけどそれってかなり辛い。居心地が悪くて早く去りたくなる。分からない言葉に囲まれて自分だけが理解出来ない時に感じるあの感じに似ている。

でも考えてみれば、その状態って子どもの日常だったりする。そうか、子どもって大人より分からないことに対して耐性があるから、異国に行った時のアジャストが早いのか。

あの時の私もまだ子供だった。
だから最後まで読めたのだろう。

今の私は、映画を見て分からなくても、本を読んで分からなくても、あの頃のような気持ちになったりしない。いちいち驚いたり傷ついたり怯えたりしない。大人になった私は分からないことに慣れてしまったし、今や何でも教えてくれる素晴らしいテクノロジーが手元にあるから。

それでも「分からない」というのはいつだってのけ者にされたようで悲しい。孤独で不安で泣きたくなる。それは子供でも大人でも一緒だ。

あの日映画館で泣きそうになっていた私と、あの日自分の部屋で打ちのめされた私。

あの頃の私はまだ大海に出る前の少女で、ぴちゃぴちゃと波打ち際で足踏みをしながら、遥か遠くの地平線を見ている子どもだった。でもなにか予感があったのだと思う。向こうの世界にある何かに。だから、勇気をだして大海に漕ぎだしたのだ。

あの日小さな町のいつもの本屋さんで私は佐々木マキさんと村上春樹さんに出会った。

全ての冒険はここから始まった。

強い風が吹いた。

あれから、たくさんの本や映画と出会った。

私はどこかに辿り着けたのだろうか?

それともまだ泣き顔の迷子なのだろうか?

答えはきっと風の中。
ずっとずっと風の中。

だから私は風の歌を聴くのだ。
ずっとずっと聴き続けるのだ。


冒険はつづく。


私はやっぱり本が好き。
私が振り返ると、
いつでも私を待っていてくれるから。

それに比べて映画は、まだつれない。私が小走りで追いかけて「ねえねえ」と肩をたたいてやっと立ち止まってくれる感じ。

大人になった私は今でも、
映画館で映画を見る前は少し、
緊張する。











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