ⅱホン㈤㈫言葉について
ソシュールは言葉とは差異によって生まれるものだとし、私たちの認識に先立って現象を形作るものだとした。さらに言葉は表示部と内容部から構成される記号的概念であること、記号の表示部と内容部の関係は恣意的であることを説いた。私は言葉が恣意的であることを強調して、言葉の持つ危うさについて考察したい。私がわたしについて語るとき、語りつつある私と、語られつつあるわたしに分断される。まさに表示部と内容部の関係である。私は自我を分断しなければ私を語れない。しかしそれでは、私はこの世に二つとしてない存在だから私であるという自己同一性原理に相反して二人の私が成立する。まさにその瞬間、私とそれ以外の境界線が消滅するとき、私の思考は機能をなさない。なぜなら、言葉とは差異によって生まれるものであり、思考することもまた言語活動だからだ。では私を思考しうる自我は如何にして存在するのか、漠然とした不安が残る。しかし考えてみればこの不安はとても簡単に解決できる。私という自我の存在を考えなければよいのだ。人は背理を持って生きており、常に矛盾を孕んでいると諦めれば、自我を言語化する必要もなくなる。
しかしながら言葉はそんな詭弁を許さない。言葉で語る限り、あらゆる事物は在るか、無いかという存在論的二択の域を出ない。それはつまり、あらゆる事物は在ることに還元されうるということでもあると私は考える。例えば、戦争についての否定意見を語ったとする。その意見は戦争反対組織という在るのうちに吸収され、組織を動かすイデオロギーに消費されるのだ。もはやそれは個人の思考の域を脱しており、だれの制御も必要としない。そこに残るのは対立という構造だけである。正義同士の戦いはまさに戦争と呼べるだろう。それが私の望んだものでないことは明らかだ。先ほど人間には矛盾が在ると述べたが、それは矛盾を在るの内に置きとどめておくことで矛盾が無いこともまた矛盾の内に吸収しているのだ。よってこのように、在る無しの二択は必ずそれを超越した存在によって恣意的に還元されるので、私は矛盾を抱えて生きていくという宣言はそれ自体、私の意図した矛盾ではなく何者かに想定されていた矛盾なのだ。虚しく思えるだけである。言葉で語る限り、この世界はすべて誰かの想像の及ぶ水準に固定される。その意味では言葉こそ思考を制限するものである。
雲は自分が生まれた意味を知ることはない。風が吹けば新しい雲が生まれるたびに、何処かの雲は消えていく。雲が生きる理由があるとしたらそれは他の雲のために死ぬことにあるのだ。つまり雲の存在理由は雲を超越した存在によって担保される。人間と雲をそのまま入れ替えることはできないかもしれないが、私が生きる理由が在るとしたら、それはおよそ私を超越した存在によってしか分からないし、私が想像できるものではないのだろう。想像に在ると仮定したとき、私は限りなく私の望まない形で言葉の恣意的な側面に吸収される。自我は沈黙によってこそ肯定されるのだ。