つきじ
何かを考えすぎた後の景色は、すべてが私の皮膚を通り越して、私の体の中へ浸透してくる。私がみている天井から吊り下がった暖色の明かりは、次第に私の見ている世界を余白に飲み込んでいき、輝きを増していく。たぶん、これからもずっとあの電球はひとりでに輝き続けるだろう。たとえ、わたしの目の収納スペースが限界を迎えても。不思議とそんな予感がする。そういえば、いまどれだけの時間がたったのかわからないけれど、こんなにも照らされつづけた私のからだは、無事なのだろうか。そのうち、蓄えた光の行き場を
写真よりも遠くに見た姿を 熱よりも熱いざわめきに 息は吸うことを許されて 息は吐くことすら許される 降りかかるけむりは 私のところまで漂い落ちて 色を削がれて身を潜める 私は潔くそれを飲み込む その輪郭に熱がかかるたびに 私の眼のふちは赤く染まり 私の眼のなかは溶けて膨らむ どんどんと溶けだしたものを見て 花びらみたい だれかに言われた気がした いつからか 私を包む ろうは忘れられていて けむりのなかを自由に泳いだ 泳ぐたびに喉を通るけむりが 泳ぐたびに甘くなってい
例えばもし、未成年の人間が法を犯すとき それはきっと成人済みの人間が法を犯すときと何かが異なる 未成年の少年が、はじめてたばこを買うために深夜のコンビニに向かって歩く コンビニのまばゆい光は、少年の非行を露出させ、少年はそれを憎らしい目つきで応対する。自動ドアの開閉は決してウェルカムを意味しない、少年はあと一歩踏み出した瞬間からすべてを演技として解決させなければならない。可能な限り相手の理解できるコードで 店員の年齢はいくつか、性格は温厚だろうか、めんどうくさがりだろう
小説を書きたいと思いながら、なかなかうまく書くこと尾ができなかった主人公の『僕』。20代の最期を迎えた年に、ある小説を書くことを決意する。 物語の本編は、当時21歳の「僕」から始まる。東京の大学に通っている「僕」は、夏休みに故郷である海辺の町に帰ってきた。故郷には、高校時代からなじみのバー「ジェイズ・バー」があり、友人の「鼠」がいる。「僕」と「鼠」は、「ジェイズ・バー」で毎晩のようにビールを飲んでいる。お互い、心の奥に何らかの悩みを抱えながら。 そんな中で、「僕」は、今まで
主人公の「僕」は社会人になった。三年前に死んだ恋人・直子の事を忘れるために、彼女が住んでいた町を訪れてみた。しかし彼女の事を忘れることはできなかった。そこから「僕」と「鼠」、それぞれの物語が交差することなく、ほぼ交互に描かれている。 「僕」は大学を卒業し、友人と始めた翻訳事務所で働いている。いつの間にか家に住み着いてしまった双子の姉妹と、「恋人のような奇妙だが、平穏な生活を続けている。しかし、ある日学生時代に夢中になったピンボールの行方が気になり始め、再び始めるためにピンボー
主人公の僕は30を目前に離婚し、一人になってしまう。しかし、その直後「僕」の前に新しい女性が現れる。彼女は耳専門のモデル、出版社のアルバイト校正係、高級コール・ガール・クラブの娼婦という三つの仕事をしている21歳の女の子。「僕」は「彼女」の耳に想像を絶する魅力を感じてしまう。彼女の耳は人を魅了し、未来を予知する特別な力を持っていた。彼女はその能力によって「羊をめぐる冒険」が始まると予言する。 その言葉の通り「僕」は「星形の斑紋のある羊」の写真を雑誌に載せたことが原因で、窮地に
影についての比喩 まず、横顔が浮かび上がってくる。これはたぶん僕と直子がいつも並んで歩いていたせいだろう。だから僕が最初に思い出すのはいつも彼女の横顔なのだ。それから彼女は僕のほうを向き、にっこりと笑い、少し首を傾げ、話しかけ、僕の目を覗き込む。まるで済んだ泉の底をちらりとよぎる小さな魚の影を探し求めるみたいに。(森。 「でも、殺したんだよ、この手で。殺意なんてなかった。僕は自分の影を殺すみたいに彼女を絞め殺したんだ。僕は彼女を占めている間、これは僕の影なんだと思っていた
内包的意味 徴表1・異性に対する媚態、異性との関係であり、異性の征服を仮想目標とする。異性が完全なる合同を遂げてそれは消滅する 徴表2 意気すなわち意気地(気概) 江戸っ子の気概すなわち、野暮と化物とは箱根より東に住まぬこと。また、異性への一種の反抗 江戸っ子とは、武士は食わねど高楊枝、宵越しの銭を持たぬ。理想主義の生んだ意気地によって媚態が霊化されたのである。 徴表3諦め 運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心。諦めに基づく瀟酒. 媚態の二元的可能性である色
かつて都市空間に記号性を与えていたのは催事(出店や露店の立ち並ぶお祭りや、皇居や都を中心とする宗教的形式だった。しかし近年では、宗教の関心は薄れ、例えば盆踊りよりパレードの方が受容され、露店のショッピングは川辺や社寺周辺から人はモール、大規模商業施設に移った。つまり、地域性という境界をなくす事で、誰もが記号的空間に参入可能になった。例えば近年のそうした空間はディズニーランドの非日常体験に代表される。 しかし記号の消費や物語の消費はディズニーランドだけではなく、ディズニーラン
性食考 銘をうつ、来し方、メディアとなる、ヴァギナデンタタ レヴィ=ストロース 狂牛病のエッセイから 神話の時代、全ての生命を持った物の間にあった原初の連帯 自らを養う肉食のための罪障感=哲学 人間と動物を往還する即物的な変身作法 民族社会はしばしば子供の体に忘却の許されない出来事の記憶をきざみつける。 日本では、「オシラサマ東北の伝承」 農家に娘がおり、その娘は家の飼い馬と仲が良く、ついには交わってしまった。父親は馬を桑の木に吊るし攻め殺してから、生皮をはぐと、娘が
ヴィナスの読み方 絶対的に他なるもの=他者=テクストを自我と同じ度量衡をもって図るのではなく、既知に還元することを自制し、それゆえに謎から出来事に接近していく知の向き合い方と、レヴィナスの欲望を欲望することで開かれる第三者への歓待 客観とは、他我の集合からなる制度的な虚構 客観性という度量衡は共感される前提に立脚するから主観的自我の度量衡でしかない。 ミステリアスな人の魅力とは それは、ゲームルール、師弟関係、大人と子供の関係に似ている。規則性の謎が提示されることに
内的体験とは 私の外に出る事でのみかろうじて生きている経験、主体の外の次元を露出させ、総体としての存在を復権させる=外の経験=裂け目の時間 内的体験は私へと現前する出来事として生きることの不可能な余白の次元を含む オットー 聖なるものにより、神概念の二重性(合理性と非合理性=全くの他なるもの=聖なるもの=異質性の現実=フォルスの伝播)を一般の事物の中に反映している。 観念論=非物質的、実体のないものに物質世界の本質を見出す考えを否定する。観念論者は何故なら物質の観念的=理
下をむくと、行き場を失った足とその影が、ただ覗いていた きみは、空の孔にしがみつくきみが ”ゆらゆら”と辺りを広げ、息をつくっていたのに ぼくは、”それ”を思い出せずに 空の孔から溢れた亡霊の言葉を、溺れてしまった 伸び続ける葉と茎は 決して夜にならず いつも空の孔と繋がった痕だけが ぼくの影に見せていた 蓄え続ける芽は、ついに焼き焦げ切れ落ちて 震えることも閉じることもできなくなった きみは昇るたびに燃えていき、日の目の届くところ全て動かせなくなっていた だから根を
見えたり、見えなくなったりするもの 幽霊 宛先が飽和し、文字が地に足をつけられなくなった世界 郵便的世界 遠近法の廃止、あらゆる象徴が不能になっていく現実 あらゆる視点 スーパーフラット アノマリーなサンリオ DID 増殖 クローンは 服の身纏い スクリーンに 登壇 鳴り物は 黒で白の膜に覆われ 機械的でかわいく 抉り切らなむ範奏 DIDは 召し上がる 如き発火の着床 血は流れず恍惚せしめる こんにち 外に在りまして礼賛 去ぬクローン 肉となり 埋めや憎めや 頭痛 杭打
生き物の中で自ら意思を持ち身体を加工するのはヒトのみである。 私たちは、持って生まれた体がよほど気に入らないのであろうか、それとも、自然のままであるということに不安を覚えるからであろうか、いつも自分の身体の一部を布切れで覆ったり包み込んだりするだけでなく、むき出しになったほかの部分にもことごとく、何らかの加工や変形や装飾を施さないではいられないようだ。そのために人々がこれまで考え出してきた手法や技巧は多彩で且つ偏執的である。 髪に対して— 毛を抜く。剃る。束ねる。止める。編
構造主義とは、私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆ