きらいがゆらぐ
最近、毎週のようにコーンご飯を炊いている。
緑色の皮をばりっと剥いてひげをむしると、光沢のある黄色い粒が恥ずかしげに顔をだす。
すがすがしい原色。
これぞ、夏の色。
実を包丁でけずり取り、吸水したお米にくわえて一緒に炊く。そこへ忘れずに入れるのが、芯だ。
実を削り取られたあとの、やや哀れな姿になった芯が、じつにいいだしを出してくれるのだが、私はいつも、どこか済まない気持ちでそれをそっと釜の中央に置いた。
子どもの頃、おやつでよく茹でたとうもろこしを食べた。農家の祖父が育てていたとうもろこしを、畑からぽきりと穫ってきてすぐ茹でるそれは、育ちざかりの子どもにとって最高のおやつだなと、今なら思う。
が、その頃の私はというと、またとうもろこしか、だった。
母は熱いからと言って、茹でたてのとうもろこしの芯にぐさりと箸を突き刺して出した。おしゃれなおやつとは、ほど遠い見た目。なんか、いろいろ長すぎる。でもたしかに、茹でたてのとうもろこしを熱々のままいただくために、とてもいい方法ではあった。
はふはふ言いながら、思いきりかぶりつく。甘みがあるものもあったし、ないものもあった(スーパーで買うとうもろこしがどれも甘いことに、今もいちいち驚いてしまう)。
そうして茹でたとうもろこしを食べるとき、いつもひとつだけ困ることがあった。歯に詰まることだ。それも百パーセントの確率で。やる気を出せば出すほど、詰まる。詰まらない前歯はないくらいに、詰まる。なんなら二重に。毎回あきらめの境地で食べていた。
そっと食べたり、指で一粒一粒ちぎって食べたり(これはこれで、下の固いところまで取れてしまうからイヤだった)と、いろんな方法を試したけれど、結局どうあがいても、詰まった。
とうもろこしは美味しいけれど、詰まるのは不快だ。子どもの頃の私は、その責任をとうもろこしの芯の部分に押しつけた。詰まる皮が付いているのは芯なのだ、と。そのねじれた思い込みが今でも脳裏に焼きついていて、芯を見るとざわついた。芯のことがきらいだった。
そのきらいが今、コーンご飯をつくるようになって、ゆらいでいる。骨ごと炊く鯛飯のように、芯も一緒に炊くといいと知ってしまった。
芯を釜に入れながら、もうひとりの私がささやく。以前はあんなにきらっていた芯なのに、都合よく、その芯の恩恵を蒙ろうとしているのだなお前は、と。
炊き上がったコーンご飯のかぐわしい湯気をかき分けて、芯を取りのぞきながら、毎回申し訳ない気持ちになる。
***
きらいだった金魚が死んだ。
もう六年以上も、何があっても死ななかったのに、クロは先日あっけなく死んだ。
今年は二年ぶりに、近所の神社の夏祭りが開かれた。わが家も意気揚々と子どもたちに浴衣を着せて訪れた。昨年は袖を通すことがなかったから、新品のタグを切ったそばからもうサイズが小さい。
境内は祭りを待ちわびた人であふれていた。普段がらんとした駐車場のスペースには屋台が並んでいて、身動きができないほどのにぎわいだった。かき氷に焼き鳥、射的やヨーヨー釣り。どの行列も駐車場を突き抜けている。さて、帰ろうか、と人ごみに怖じ気づく親をよそに、せっかくだからどれか並びたい、という子どもたち。『せっかく』という言葉に弱い親は、じゃあ、どれかひとつだけね、と言って、手分けして並んだ。
娘は金魚すくいを選んだ。正確に言うと、ぽよぽよボールすくいに並んだと思っていたのに途中で列の看板が消えて、金魚すくいになっていた。ずっと並んで、ようやく先頭まできたところだった。やる? と訊くと、間髪入れずに、やる! と娘。やっぱり、やるのか。
正直なところ、気が進まなかった。
六年前の夏、息子が金魚すくいで連れ帰った金魚が、まだわが家の水槽で一匹だけ生きているのだ。巨大で、気が強くて、ほかの金魚たちを散々いじめた、憎たらしい黒い金魚。世話をしてきたのは私だったが、水替えをするモチベーションは毎回とても低かった。
これ以上、水槽を増やすことはできないし、小さな金魚をいっしょに入れたら食べられる可能性は高い。
とはいえ、娘の決意は固かった。あれよあれよと流れに乗っておじさんにポイをもらい、金魚を追っている。
一匹もすくえなかったのに、三匹ももらってしまった。
灰色のと、白いのと、黒にオレンジ模様のひれが二重のきれいな金魚。娘は、金魚の入ったビニール袋を大事そうに両手で抱えて、そおっと一歩一歩、家に帰った。さっそく、しろんちゃん、はいんちゃん、くろんこちゃん、と名づけている。
水槽にひとりひっそりと生きていたクロは、相当なおじいちゃんになっていた。最近は呆けたようにじーっとして、あまり動く姿をみることはなかった。もしかしたらいっしょに暮らせるかもしれない。私は淡い期待を抱いた。
覚悟を決めて、水槽にうつす。クロはしばらくぼんやりとしていたが、三匹の小さな金魚に気がつくと、過去の雄志を思いだしたのか、すいすいと勇ましく泳ぎはじめた。
次の日の朝、祈るように水槽を見ると、子どもたちは三匹とも元気そうに泳いでいた。ああ、よかったと胸をなでおろす。もう食べられるサイズじゃないのかもしれない。仲よくやれるのかもしれない。
ほっとしたのもつかの間、その日、学校から帰ってすぐ水槽にかけよった娘の悲鳴が聞こえた。
「く、くろんこちゃんがーっ」
あわてて見に行くと、くろんこちゃんが自慢のひれを食べられて、おしりがすっぽりなくなっている。見るも無惨。口をぱくぱくとして、まだ生きているのが余計に痛々しかった。たまらない。クロへの怒りは頂点に達した。
お前はいつもいつもいつも、弱いものをいじめて、どうしてこうも懲りないんだ。水槽のなかを我がもの顔で泳ぐクロを、私はにらみつけた。金魚の本能なのだと、わかっていても収まらない。
くろんこは、その後しずかに死んだ。娘がしくしく泣いている。ほかの二匹がやられるのも時間の問題だろう。どうしたらいいのか。かわいい二匹の子ども金魚と、ほかを追いまわすでかい金魚。どちらを選ぶのか。私はひとり選択を迫られていた。
私は、ひとまずクロをバケツにうつした。空気ポンプがないから過酷かもしれないが、こいつは強い。強すぎるのだ。
そのうちに、息子が帰宅。普段は見向きもしなかったのに、バケツに入れられたクロを見て、かわいそうだ、と言った。私は困ったけれど、仕方がないのだ、と言った。
それからふと、酸素が出る錠剤のことを思いだした。一時期ポンプがなかったときに使っていたのだ。今、家にはないけれど、ペットショップにはあるかもしれない。その話をすると、息子はお願い、それ買ってきて、と懇願してきた。
夕食の準備もそっちのけで、在庫のあるペットショップへと自転車を走らせた。手に入れた錠剤を二粒、クロのバケツに入れる。泡はあまり出ていないけど、きっと大丈夫。箱に一ヵ月はもつと書いてあるから。千円もしたんだ。クロのために走ったんだ。
翌朝、クロは死んでいた。バケツにぷかんと浮かんだクロはすでに物質になっていて、これまで何匹も突き殺してきた厳しい風貌は消えていた。長期で家を空けたときも、水槽が濁りきったときも生き続けてきたのに、私がバケツにうつしたら死んだ。
***
息子は歴代の金魚をプランターに埋葬している。昨年そこに朝顔の種をまいていたようで、今年はにょきにょきと芽が出てきたかと思ったら、おそろしい勢いでつるをのばし、朝顔とは思えない鬱蒼とした森を創り出している。
命のバトンだ、と見るたび思う。皆の栄養を受けとった朝顔はとてつもない勢いで青々と茂り、子どもの手のひらよりも大きな大輪の花を咲かせている。その花を見ていたら、とたんに目頭が熱くなった。
きらい、って、案外ゆらぐのだと思う。
少なくとも私の場合はそのようだ。きらいだったはずなのに、いつのまにかそのきらいはどこかへ消えて、どうしてあんなにきらっていたのだろうと、ふと分からなくなるときがある。
好きな気持ちは直感にもとづくことが多いから長持ちするけど、きらいの裏には何か理由がひそんでいるからかもしれない。自分にとって、あるいは自分の大切な存在にとって、不利益をもたらすおそれがある存在を、きらう。でも、その理由は流動的で、その主たる理由が変われば、あるいは流れ去ってしまえば、その強い気持ちを忘れてしまう。
思い込みが激しいせいもあるのだろう。
そんなことではいけないぞと、最近よく思う。
もっと冷静に、もっと客観的に、きらいを見つめたい。
金魚の世界。自然の摂理。強いものもいれば弱いものもいる。
とうもろこしに芯がなかったら、美味しい実はみのらない。芯は大事だ、何ごとにも。
感情に流されやすいからこそ、自分の「きらい」のゆらぎを見極めなければいけない。一度、きらいだと思うと、それが自分のなかで勝手に膨らんで、大きらいになることがある。そんなに単純なことじゃないのだと、もっときちんと向き合わなければいけないのに。これまでの、いろんなきらいが、よみがえる。
もやもやは消えないし、はっきりした答えも出ないけど、きらいってなんだろうと、そんなことを考えた今日この頃のできごとでした。
長文にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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