切り取って、貼る人々
普段、人が書いた文章を読むことは、論文や発売されている書籍以外にほとんど無い。(一部フォロワの書き物はチェックする)
このnoteも例外ではなく、自分が書いた物も同じだ。
ただ、どの程度の物が書かれているのか、を確認するために、興味の無いnoteの記事を読んだことはある。
これは、出版されている書籍も同じで、本屋さんなどに行くと流行っている物に目を通したりはする。
noteを書こうとページを開くと、哲学や心理学についてのオススメが表示されることが多い。自分の文章に適当なタグを付けているので、そのせいだろう。(自分が書いている物を哲学的だと思ったことは、無い)
読んだ記事の内容は本当に退屈で、明らかに既刊の書籍のコピー、ペーストで構成されていたり、それでこの人の言葉はどこなの?と思える文章ばかりだった。その記事に限ってかも知れないが。
デカルトがどう、ニュートンがどう、と書いてあるのだが、要約すると「彼らがこんなことを言っていた」とその記事の筆者が代弁しているだけだ。
例えば、物質には物理的に説明可能な(矛盾が無いという意味で)運動法則があるが、ニュートンがそれを発見してから人間は「精神世界」に対する興味が希薄になった、と書くのは構わない。この発想が優れているかどうかはさておき、「私はそう思う」と言うならちゃんとした「意見」ではある。
しかし、大概こういう文章には、「そのように誰々が言っていた」と続く。読者は「あなたが言っているのでは無いのか」と落胆する。
本を読むのに慣れている人は、文章のニュアンスから「これはこの人の知識では無いな」ということを見抜くはずだ。
昨今のSNS事情を見ていても思うが、誰かの意見や「素敵な言葉」を支持するのは良い。
ただ、それを好きなように引用して、さも自分が語っているかのように演出する。あるいは、「この言葉すごいでしょ」と紹介して、目立とうとする。こういう傾向は、ここ10年で顕著に表れている。
今や、物事を紹介する人ばかりで、「あなたは何を思ったのですか?」という発信がほとんど見られない。
もちろん、知識を取り込み、そこから自分の考えを生み出す、またそれを発表するというのは、難しいだろう。
難しいというか、自分の言葉に自信が持てない人も多いのでは。
しかし、ただ何かに感動したり、影響を受けて、そのことを発表するよりも、拙い言葉でも「僕は、私はこう思った」「こんな経験をした」と言える人間の方が、よっぽど信頼ができるし、魅力がある。
人類史史上、これほど個人と個人がダイレクトに繋がっていると「感じる」時代は無かった。人間は、まだこれに慣れていない。このネットワークの在り方は、明らかに異常な事態と言える。
楽しいことを探そうと思えば、いくらでも手に届く世の中だ。
アニメ、映画、ドラマ、漫画、買い物、繋がりさえもどこにでも存在している。家の中にいれば、それらは全て手に入る。凄まじい発展と、素晴らしい発展だ。
ただ、やはり「受け取ること」に慣れすぎている。
その元凶はスマホ、パソコンなどの「コンピュータ」だ。
これがある限り、情報はとめどなく流れてくる。
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つきのまどの【つれづれゴニョゴニョ】
最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…
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