「人はちゃんと、なりたい自分になっている」という冷たい言葉の真意。
あえて、普段より長く書いていきましょう。
活動を通じて、僕のことをなんとなく、「こういう人だ」と思っている人もいると思うが、全体を見渡してみると「よくわからない人」という印象を持たれていると思う。当の本人もそう思うし、自分の「全体」というものが全くわからない。わかろうとも思わないが。
少なくとも僕は、「自分はこういう人間です」と言えるほど、自分のことをよく知らない。ただ、その都度、自分が思うように選択してきたし、なりたいようになってきた。人は、基本的になりたい自分になっている。よほどの病気や障害でも無い限り、そういうものだ。これが、今回の内容の全てである。
「いや、それは違う。この悲惨な現状は、自分のせいではない。こんな状態になりたかったとでも言うのか!」と血管を膨張させながら、異論を唱える人もいる。というか、ある種の生徒によくそのような反論を受ける。それ以上の説明を求められることもあるので、その際には道理というものを教えることにしている。
または、「そんなことを言うなんて悲しい、冷たい意見だ」と思う人もいるだろう。その通り、僕は冷たい。多くの人が望む優しさを持っていない。ただ、その優しさが一体何を解決するのか、そんなことだから理想と現実の乖離に悩むのではないか、と感じる。今回は、ちょっと厳しい内容の予感がしてきたか。厳しいと感じる人は、「なりたい自分」について考えが足りないかも知れない。
夢や理想を叶えるために考えたり、何かを捨てたりしている人は、そうは感じないだろう。「いつも通り、普通のことを言っているだけだな」と感じるはずだ。その理屈がわかる人は、今回は読まないでほしい。時間の無駄だ。ただ、「なるようになるから」と常日頃から口にする人は、けっこう危険だと思うから少し知識を身につけた方が良いかも。
「こんなはずじゃなかった」と思う人の問題は、どこにあるだろう。
それはほとんどの場合、忙殺されていく生活の中で、「なりたい人物像」に対する認識が歪んでしまうことが影響している。
例えば、「これをやれば一歩前に進む」とわかっていても、疲れていたり、調子が悪かったら、「ちょっとやめておこう。休もう。」となるのが人の感情というものだ。「まだ時間があるから、明日やろう」という例のやつ。
もちろん、それを否定しているわけではない。休むべき時は休み、サボるべき時はサボる。でなければ、色々と不具合が出る時だってある。この辺りは、人によって体力も違うし、環境も違うから、なんとも言いようが無い。それぞれのやり方で、対処していくしか無いだろう。それ自体は問題ではない。
夏休みの宿題なら、やりさえすれば必ず終わるが、これを人生に例えるとわかりやすいかも知れない。
2ヶ月の休みがあるとして、この宿題をどのように配分するか。
ほとんどの人は、まだ時間があるのだから、少し休んでから始めようと思うのではないか。最終日間近になって、急いで始める人もいるだろう。もちろん、その内容はお粗末なもので、先生はそれを見れば、その生徒がどんな生活をしたか、どう考えているかがわかったはずだ。
しかし、夏休みの宿題程度の労働は、1日に1時間もやれば、簡単に終わってしまう。いや、1日に数十分で充分なはずだ。この宿題を60日間にどう割り振れば良いのか、誰にでもわかるはずだ。簡単な割り算である。
だから、割り算ができる年齢になると、それに対応した量の宿題が出される。子供には、それくらいのことがわかる。親は宿題のカリキュラムを組まないだろう。(親に関しては、想像でしかないが)
ただ、理想通りに生活を進めることができる人ばかりではない。
家庭の事情や、体力、本能的な欲求の度合いもそれぞれに違う。特に、家庭の事情など「偶然」に見える要素があるから、「こんなはずじゃなかった」「自分のせいじゃない」「外界に自分の人生を支配されている」と考えやすい。これも、気持ちとしては理解できる。
もちろん、僕もそうだった。
今思えば、僕の環境なんてそれほど酷い環境では無かったわけだが、ある時期はまさに、自分の人生を誰かのせいにして、「俺は人生なんてどうでもいいかな」みたいな諦めムードを漂わせながら過ごしていた。
かと言って、僕は酷い知能障害を持っているわけでも無かったし、身体に障害を抱えているわけでも無い。それは、完全な事実である。
幼少の頃はさすがに仕方が無いと今でも思うけど、小学校高学年、中学にもなれば、色々なことを感じ、考えることができたはずだ。
しかし、自分の不遇を嘆く気持ちが、自分を酔わせてしまう。まるで、悲劇の舞台に立った主人公のように、「自分はそういう人間だから、仕方が無い」と受け入れ始めるのだ。そのナルシシズムが快感に繋がることも多い。
まぁそれから色々とあって、ある時期から僕は、「自分の人生は自分のものだ。これを誰かのせいにしてはならない。」と気づき、色々と考えを改めることにした。
それまでの自分の人生も、これからの自分の人生も、自分の気づきによって変えられたはずだし、変えていけるはずだ、という当たり前のことに気づいたのである。
宿題の話で言えば、誰かのせいで自分の宿題が捗らなかった、と言っていたところを、「僕は無知だから、その方法を知らなかったのだな。」と気づいたということ。僕はただ、「無知」だった。それだけの話だ。それだけの話で、何年もの月日を過ごす。人々の共感や優しさが、最後まで責任を持って見守ってくれるのなら素敵だが、世の中はそうではない。優しく共感しておいて、ただずっとその場に停滞させておこうと考える人もいるだろう。これが意外と多い。騙されてはならない。
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つきのまどの【つれづれゴニョゴニョ】
最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…
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