事実とは何かと考える2 事実を、どのように捉えるべきか
前回、「事実」というものがどういうものかを、簡単に書いた。
事実とは何かと考えることによって、まず「ゼロ」の状態に立ってみようという意識についてである。
ヨーグルトで言えば、砂糖などが入っていないプレーンな状態だ。
この世界のあらゆる現象を認識した途端、僕たちは必ず何かを「思う」わけだが、これはあくまで主観であり、あなたの世界でしか起きていない「幻想」だとも書いた。その幻想が、ヨーグルトにおける砂糖やフレーバーということ。
起きている事実、現象に、僕たちの感情や感性が添加され、僕たちの「現実」になる。
それを現実である、世界である、と思い込んでいる。
しかし、実際には、「現実」は2つある。
ただ起きている「現象としての事実」と、それぞれがその「事実」に対して感情を持ったり、何かしらの反応をして変化したあとの「現実」だ。色がつく前の世界と、色をつけたあとの世界の違いといえば、わかりやすいかもしれない。
ただ、その色付けは極めてスピーディに行われるから、どこからどこまでが自分の「幻想」なのか、自分にもわからない。
好き嫌いや、感じ方によって、世界は常に色付けされているから、複雑で多様で難しいと、いつも語っている通りだ。
これこそ、僕たちを苦しめている大きな原因なのである。
もしあなたが何かに困ったら、この事実というものについて思い返してほしいと僕は願っている。
生活の中にある「事実」とは何か。
それぞれに生活は違うと思うし、抱えている問題も違うだろう。いろいろな感情の中で生きていて、時にそれは過剰なまでに自分を責め立てるはずだ。
でも、そのような感情を抜きにして、改めて観察するあなたの生活は、実に淡々としたものだ。
仕事をしたり、闘病をしたり、家事をしたり、学校に行ったり、たかがそれだけのことしか残らない。
空いた時間に趣味をしたり、遊んだり、そういうことを抜きにすれば、誰の生活にも起きていることはほとんど同じで、差異は無かったりする。
感情や捉え方、好き嫌いなどを「色」だとすれば、無色でいることはとても難しい。というか、ほぼ無理に等しい。
ただ、仮にそれが可能なら、やはり人間の生活に差異はない。無色で何の意味もない物同士を比較しても、何も生まれないからだ。
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つきのまどの【つれづれゴニョゴニョ】
最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…
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