児童期の経験について少し考えてみました~不登校のメリット・デメリットもふまえて~
※個人に対しての批判等はありません
※思いつき雑感です
最近考えるきっかけをくれました、「少年革命家」としてYouTuber活動をされている「ゆたぼん」さん(くん?)。
数年前からメディアで話題にされることがちらほら。小学生ですが、不登校であることを公言し、YouTube等を通して様々な発信をしています。
また、多くの人々がこのことについて言及されています。父親の姿勢等も含めて、批判的な意見も目立ちますが、中には肯定的な意見もあります。
特に、学校に行くことで苦しくなる面が大きいならば、不登校という選択肢はありではないか、という向きの意見は、どのような意見の中にも含まれている印象があります。
ここでは「ゆたぼん」さんの不登校や、それに関する言動に対して特に意見等は述べません…というか、彼(と両親)の選択について自分が偉そうに言える立場でもないですし、むしろその是非は、彼が大人になってから語られるべきかも…とも思います。
ここで考えてみたいのは、児童期のあり方の是非です。
児童期、つまり小学校時代にあたる年齢期、どのような過ごし方をするべきなのでしょうか。
KJ法の発案者、川喜多二郎は、著書で「ふるさと」について、「なぜ、ふるさとは、ふるさととなったのであろうか」として次のように述べています。
「ふるさととは、子どもから大人になる途中で、子どもながらに全力傾注で創造的行為を行い、それをいくつか達成した、そういう達成体験が累積した場所だから、「ふるさと」になったのだ、ということである。」(川喜多二郎『創造性とは何か』祥伝社新書2010)
つまり、特にエピソードがなければただの場所にすぎないけれど、子ども時代に全力で「創造的活動」をしたならば、過ごした場所を「ふるさと」と呼べるほど自分の中で価値付けできる、ということになります。
創造的活動というと少々カタいですが、ざっくばらんにいえば、自分の意思で思うがままに、多くの時間をかけてしたこと、といった感じでしょうか。
さすがに、ウサギを追ったりフナを釣ったりする人は少ないかもしれないですが、全力で遊んだ経験…広場で仲間と遊び尽くしたり、林で虫を捕りまくったりした経験は、その人の中に「ふるさと」という概念を生み出すほどの影響力をもちうる、というようにも考えられます。
これは、小学校にも言えるかもしれません。
他の人から見ればただの小学校…しかも日本の学校は似たような建物が多いですが…自分にとってその小学校でたくさんの思い出があるから、その学校は自分にとって特別な場所になるのだと思います。
その思い出が良いものであれば、学校全般に良い印象をもったまま大人になるでしょうし、苦い思い出が目立つようであれば、距離起きたい存在になってしまうかもしれません。
そして、児童期の良い思い出のもとになる、たくさんの「経験」は、案外人の生き方の根底になっているように思います。
子どものころに夢中になったことは、その人が本能的にといって良いくらい好きなものだと考えられますし、反対に、苦い経験から、「現状を変えよう」とか「同じように苦しむ人を救おう」として職業にされる方も少なくないと思います。
児童期の経験は、それほど影響力をもっているのだと考えられます。
では、これらを児童期のあり方として見たときに、「不登校」という選択肢はどのような影響があるのでしょうか。
自分ではどうにもならない苦しい経験…根深いいじめ、集団生活になじまない、学習内容が理解不能で日常生活に支障が出てしまう…といった場合ならば、「不登校」という選択をすることで、大事な経験を積むべき学童期に、心に大きな傷を負うという事態を避けられる、といった大きなメリットがあるでしょう。
逆に、たまたま同じ地域に住んだ、様々な同年代と過ごすことによる、興味関心の広がりや人々のつながりは得にくくなるのかもしれません。
学習については、自分で好きなことを追究できる子であれば、メリットの方が大きいかもしれません。(研究者になるような人はまさにこの場合だと思います)
一方で、学校では様々な教科等があるため、自分の視野だけでは気づきもしなかった学びのチャンスを逃すことになるかもしれません。
なんだかつらつらと書いてしまい、とりとめがなくなってしまいましたが、あまり長くなっても文章が散らかってしまうので、一旦ここまでにします。
いずれにせよ、この世に生まれてきたならば、幸せな児童期を過ごす人が一人でも増えて欲しいと、改めて思う今日この頃です。
最後までお読みいただきありがとうございました^^