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社会科における資料について、ちょっと立ち止まって再考する

「社会科は、資料が大事だよ」
「子どもが資料を読み取れないのですが、どうしたらよいですか?」

 社会科の授業づくりの話題になると、このような会話がしばしばあるように感じます。

 資料を基に授業を進めたいのですが、子どもが資料を読み取れない…そこで、さあどうしたものかと悩む教員の方も少なくないようです…

 ちょっとだけ立ち止まって、少し社会科における資料を再考してみます。

1.資料とは


 前提として、資料は、「情報収集の手段」です。
 したがって、資料を読み取ること自体は、情報収集という技能的な部分が大きい行為と言えます。

 宗實直樹さんは、資料について「もととなる材料」「助けとなるもの」とし、
・文章資料
・図表資料
・現物資料
・視聴覚資料
に分類しています。
https://yohhoi.hatenablog.com/entry/2020/09/30/043000

 宗實さんのまとめに敬意を払いつつ、この各資料について、自分なりに番号を振りなおすと、
①現物資料
②文章資料
③視聴覚資料
④図表資料
という順になるように感じました。
 これは、あくまでざっくりですが、「一次情報から近い順」に並べたものです。

 資料は「情報収集の手段」という大前提の上で、大きく二つの側面があると感じています。
A:情報源そのもの
B:情報源を整理したもの

 Aは、わかりやすいのは、①現物資料です。生産している商品等の実物、現代に残っている昔の物などです。百聞は一見に如かず、本物が一番情報としては正確で、本質的です。
 この意味で、見学やフィードワークなども、この仲間になるでしょう。
②文章資料についても同様です。パンフレットに書かれた文章、残された古くからの文書などは、「情報源そのもの」と言えそうです。

 Bは、一次情報が加工され、情報を読み取りやすくしたり、見えにくい側面を浮き彫りにしたりする資料です。④図表資料のほとんどは、これにあたると考えます。

 街頭インタビューを100人実施することは、時間的にも労力的にも厳しく、それらをまとめることはさらに困難を極めます。しかし、グラフにまとめてあるものが存在すれば、それらの情報を得ることができ、さらに傾向まで読み取ることが可能です。

 そういった意味で、③視聴覚資料はAとB,両方の意味を持ちます。
 本来なら、一次情報として得たかった、つまり、現地で見たかった映像や画像…工場内、遠く離れた地域、もっと言えば他の国の様子などの情報を、現地に行くには及ばないけど、可能な限りそれに近い情報を得られる点では、Aの要素を持っています。

 しかしながら、画像や動画は編集可能です。そのため、特定の部分を拡大して読み取りやすくしたり、切り抜いて情報を限定したりすることもできます。
 同時に、昨今の画像や動画編集技術をもってすれば、断片的な情報に加工し、実際にその場にいた場合とは、違う受け取りをしてしまう情報源に加工してしまっているケースも十分見られます。

 地図も捉えようによっては、AとBの両面があります。土地の全体像を見たいと思った時、本当は自分が空を飛べればいいのですが、おおよそ不可能なので地図を使う、といえばAの要素です。しかしながら、そこに地形だけでなく、人口の大小や特産品などを重ねれば、Bの要素が強いといえます。

 その意味で、②文章資料について、人の手が入っているため、本当に一次情報かどうかはその場合によるかと思います。③視聴覚資料と比較した場合、ものによっては入れ替わる可能性もあります。

 資料と一口に言っても、これだけの種類や要素があります。

2.そもそも、資料を読む意味は?

  
 ここまで、資料のもつ側面についてそこそこ長く述べてきました。
 が、一番言いたいのはここではありません(笑)。

 読み取らせようと躍起になっているその資料…

 その資料、どうしても読み取らなければいけませんか?

 冒頭に立ち返ると、前提として、資料は、「情報収集の手段」です。
 何のためかというと、社会的事象の特色を捉えたり、これからの社会を考える上での材料にしたりするためです。

 例えば、少子高齢化によって農業従事者が減り、高齢化が進んでいることをグラフから読み取れなかったとしても、農家の方のインタビュー記事があれば、理解できます。
 
 三権分立の関係が図から読み取れなくても、それぞれの立場で役を当てがって、数分のロールプレイをすれば、資料よりわかりやすいかもしれません。

 別に、一つの資料に躍起になることはないのです。

 何より、子どもはその資料を読みたいと思っているでしょうか。

 その資料から、情報を得る必要感をもっているでしょうか。

 教員が読み取らせたい資料を、子どもが読み取らない。
 言い換えれば、サラダを食べさせたいのだけど、子どもが食べない、と言っているのと、ほぼ同じかもしれません。
 
 当たり前ですよね。

 「読み取れない」が技術的に読み取れないのか、そもそも読み取る気がないのか、について、「資料が~」と語る前に、社会科における資料について、ちょっと立ち止まって再考してみる必要があるように感じました。

 子どもが、読み取る必要感があるから読む

 もっと言えば、教員側から示さなくても読む

 そんなふうになればいいなぁと思います。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました☆


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