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「よかれと思って」を客観視できない

先日、ウクライナに折り鶴を送る話が話題になっていた。

この是非は置いておくとして、折り鶴を送るほうはきっと「よかれと思って」行動に移したのだろう。それが、送られる方にとってはありがたくない結果だった。

この話を声高に批判したり取り上げたりしてる人はたくさんいるけど、その人は、別の場所で「よかれと思って」やったことで他人に迷惑をかけていないだろうか。

おじさんが頼まれてもないのに、よかれと思って若手にアドバイスする。姑が嫁によかれと思って子育てのアドバイスをする、などがいい例かもしれない。アドバイス以外にも、モノや時間を送ることだってある。

こういうことに対する非難が消えることはない。なんでかなぁ、と少し考えてみたのだけれど、きっとそれは「よかれと思ってやることを客観視することがとても難しいから」なんじゃないかと。

他人の価値観を理解することも簡単なことじゃないし、ましてやそこに配慮して自分の行動を変えるのはもっと難しい。

同時に、いちいち「他人がどう思うかな」ということばかり考えるのがいいことでもない。相手の価値観にばかり配慮してたら、自分の人生を生きられなくなってしまう。

自分の価値観を大事にすることをコーチングで後押しすることもある。ある意味、ウクライナへの折り鶴は、自分の価値観を大事にした結果とも言える。

迷惑をかけなければなんでもいい、という話でもない。インドだかどこかのことわざで、「人間は他人に迷惑をかけずに生きられない。迷惑をかけること自体は仕方ないので、自分が迷惑をこうむってもいい感じで許してやれ」みたいな話もある。

「要はバランスだよね」みたいなことなんだけれど、そのバランスをどこで取るのかは難しい。折り鶴だって、千羽鶴じゃなくて、もうちょっと小さい単位だったらカワイイもんだ。何羽からは邪魔、なんて線引きに正解はない。

とりあえず、僕らにできることはたぶん、
「よかれと思ってやろうと思うことを、いったん客観的に考えてみる」、
「判断がつかなければ、いったん自分の価値観を大事にしてみる」、
「結果や相手の反応を素直に受け止める」、
「迷惑だと思ったら迷惑って言う」、
とかだろうね。わかんないけど。「折り鶴、邪魔でしょ」もひとつの価値観でしかないから。

この投稿も、同じ道をたどるかもしれない。何かを発信するということは、そういう反応とセットだ。

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笠岡司/セールスイネーブルメントとコーチング
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