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ルールを守らない以前の問題

今からおよそ3年前のある日、当時YouTubeで広告なる動画が流れ出した時の話である。

一時見たいものを選んで再生しようとした途端、この投稿主から広告なる動画として執拗しつように流れていたことがあった。

目の前に映っているのは、黒い背景にカットインしていく歌詞に合わせて音楽が流れていくという、なんの変哲もなさそうに見える動画である。

にも関わらず題名をはじめ、下手すれば物議を醸し出してしまうような歌詞に対して、妙な煩わしさを覚えた記憶があった。

いつもであれば、こうした動画が間に割り込んでくるたびに「またこれか…」と思いつつ、数秒ほど経って真っ先にスキップを押してきていた。

だがこの時だけ「駐輪禁止の看板を見て見ぬフリして…」と始まる歌い出しに目が留まり、自然と引き込まれていくのだった。

気づけばとおりゃんせのメロディーに乗せた歌い終わりまで、一定時間を経過すると画面の右下箇所に現れるスキップに、カーソルを合わせることなく見入っていた。


この動画は、序盤では駐輪禁止の標識が立てられた事の経緯から始まり、終盤に近づくにつれて自己愛禁止ついて取り上げたものへと変貌していくのである。その言葉ワードには、なぜか納得させられるものがあった。

この世界であらゆる規律に縛られながら生きている限り、必ず一つの物事において誰か一人はルールを平気で破っていく者がいる。

かくいう私も、学生あるいは新入社員なりたてで考え方がまだ浅はかだった頃は、些細なことでルールを無視してしまうこともあった。

そうした守る守らないを繰り返して今を生きているからこそ、改めてそこに興味を惹かれる要素があったのだと思う。

ルールが出来上がったきっかけは何だったのか、どうしてルールにルールが積み上げられていくのか。

その動画に映し出された歌詞には、投稿主特有の皮肉が込められていながらも、明確な理由が示されていた。


今まで抱えていた「なんでルールを守らないのか」「なぜルールを守ろうとしないのか」という簡単そうで難関な問いについて、実際に答えはシンプルに出来ていたことに気づいたのである。

それは駐輪禁止の交通標識だけで収まる話ではない。現在もさまざまなところで必死になって守ろうと、蜘蛛の巣のように複雑で張り巡らされたルールの数々が、昨今の情勢を表裏問わず物語っている。

少なくともここ数年で起こったパンデミックを機に「自分さえよければいい」なんて典型的な考えを持った人を、よりくっきりと多く見かけるようになったと感じている。

そして何より、規律・規則を守ろうとしない正そうとしない自己愛の強い者たちが、私たちの前で血と汗と涙の結晶を刃にして奮い続けている限り、心からの安寧は訪れないかもしれない。

立場を司る人間が襟を正せば良いだけのことなのに、どうして民を統べる者たちはそれを実行しようとしないのか。

もはやそれぞれ自己愛が強すぎて救いようが無いほどに盲目の状態が続いてしまっているからだと、数年ぶりに「駐輪禁止ですよ」という動画を見てふと思ったのであった。

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タダノツカサ
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