政治(経済)講座ⅴ1462「デフレとインフレのどちらが好き?日本の経済の考察」
吾輩が就職した昭和46年(1971年)の年に給与月給16000円と記憶している。その翌年、19000円台に給与が増額された。翌々年には30000円台になった。10円で買えた大学ノートが100円に値上がりしたことも記憶している。その当時を振り返ると「狂乱物価」と命名されたのも納得できるのである。インフレで給与水準も増額されたので生活水準は維持された。その前に、日本は敗戦後に貨幣価値もどんどん低下していった。当然、為替相場も1ドル365円時代を経験している。このときの円安で輸出競争力を付けて外貨をしこたまため込んで今では世界中で債権国家まで上り詰めたのである。
子供のころに使った貨幣(紙幣)をちょっと紹介する。
この様な波瀾万丈な経済を経験しての教訓は、一番、恐れるべき経済現象はインフレである。
貨幣は商品 交換の際の媒介物であり、価値尺度、流通手段、価値貯蔵の3機能を持つと言われているが、インフレで通貨(貨幣)の価値が低下するのである。
インフレで財産(金融資産)が目減りするのである。
石川五右衛門のような大盗賊が「インフレ」という盗賊である。すべての金融資産を持つ者から価値を奪うのである。しかし、世の中には賢い人もいて、この価値の目減りを逆手に取る者もいる。借財で事業を展開する者や住宅ローンで家を買いポートフォリオで財産防衛をするものまで現れている。バブル崩壊後を「失われたデフレ経済の30年」と揶揄する知ったかぶりする経済学者の主張には吾輩は反対の主張をする。それは、デフレを「貨幣価値の安定」と捉えるのである。
高齢化の年金受給者。配当金収入者にとっては、デフレの通貨安定経済はありがたいのである。退職金を死ぬまで食いつなぐ身にとっては幸せなことである。だから、デフレ経済を悲観することなく、プラス思考で考えるべきである。
なぜ、政府はインフレ政策を推進しているのかと言うと、インフレで国債と言う借財の実質目減りが期待できるから、物価上昇のインフレ経済を推進するのである。
大幅な増税で防衛費や財政健全化は難しいので、通貨の目減り、これが財務省の本音なのである。
さて後述の報道記事のように、日本はGDPがドイツに抜かれて衰退していくのか?
吾輩は日本の本当の実力は隠されていると考える。
今回は日本経済を悲観する報道記事を紹介するが、日本は臥薪嘗胆の我慢の経済体制であることは否定できないが希望は捨てずに、機会をうかがっていると考える。
蛇足:昨年、ハワイ旅行に行って驚いたことに物価な日本の3倍であった。ちなみに、為替相場は1ドル145円でした。米国にインフレに驚いたのである。その前のパラオ旅行の時は1ドル104円であった。韓国旅行のときも1ドル110円前後、台湾旅行の時はやはり1ドル110円前後と記憶している。その当時は国内旅行の方が高く海外旅行は安いと感じたのは為替相場によるところが大きかったと今更ながら為替相場の影響を感じているのである。
皇紀2683年10月28日
さいたま市桜区
政治研究者 田村 司
はじめに
吾輩の好きな言葉に龍安寺の「吾唯知足」がある。
日本は焼け野原から復興して物理的には満たされた経済基盤が出来ていると考えるのである。それが、デフレ経済の日本の姿である。精神的にも物質的にも満たされている心を日本人は持っているのである。経済学は心理学であると言った政治家がいた。その通りである。
盛んにGDP!GDP!4位の低下、とマイナス思考の論評が見られるが、日本は表立たないが秘めたる力(稼ぐ力)は衰えていないと考える。日本人は勤勉で真面目で実直で職人気質を持っている。氷山の一角であるが、日本企業の合弁会社などから受け取る利益・配当金は貿易の経常収支にあらわされるが毎年黒字の収入がある。特許などの知的財産収入など、目に見えない財産が日本には蓄積されていると考える。
まず、言葉の定義から考察を進める。
経済成長とは
ある経済の活動規模が増大・拡張していくことである。経済規模の計測は、一般的に国内総生産 (GDP) を用いて行う。
実質GDP × GDPデフレーター = 名目GDP。
GDPデフレーターは1以上であれば物価上昇(インフレーション)を意味する。
名目と実質を分けるのは、貨幣金額によって計測された価値の増大を、価格上昇分と生産増大分に切り分けるのが目的である。
国民生活の改善や国力増大の基準として実質成長への関心のほうが高い。
経済成長率を計算するもとになるGDPには原則として貨幣経済で取引された付加価値だけが計上される。そのことによる統計的な問題がGDPには存在する。
たとえば以下のような差がある。
GDPに計上されないもの
家族の内部における身内による介護
GDPに計上されるもの
外部に委託された有料サービスによる介護
帰属計算によってGDPに計上されるもの
農家による自家生産物の消費
経済成長は、付加価値の生産が増大することである。
このため、実際に生産量が増加することとは異なる場合がある。
付加価値を市場から提示されることで決定される。
また、付加価値は生産に要した労働と資本に分配される。労働力への分配は賃金などを意味し、資本への分配は利潤を意味する。
経済成長の要因として、
1)労働力(人口増加)、
2)機械・工場などの資本ストック(蓄積)、
3)技術進歩、の3つが挙げられる。
労働・資本以外の要因で成長力が高まることを「全要素生産性(TFP)が上昇する」という。
GDPの成長率は、技術進歩率(全要素生産性上昇率)と資本の成長率と労働の成長率に分解できる。
経済成長の条件として、
1)私的所有権の保護、
2)イノベーション、
3)科学的合理主義を可能とすることへの容認、
4)債権債務の制度化、
5)参加の自由、
6)開放性、がある。
2006年の世界銀行の成長開発委員会の報告書では、経済成長をする一般原則は存在しないという結論となっている。
総需要が不足して売れ残りが発生しても、物価の下落で全部売り切れる、つまり経済活動は総供給で決まるという考え方を「セイの法則」という。三菱総合研究所は「長期の経済成長は、国全体でどれだけモノ・サービスをつくりだす能力があるかという経済全体の供給面から決まる」と指摘している。
現代(2011年)の経済は、供給に需要が適応するのではなく、需要に供給が適応する経済構造となっている。
供給重視のアプローチは、経済の歪みを拡大させ社会的負担を増加させる。結果、経済の持続的発展を妨げる。
中国の不動産バブル崩壊を俯瞰すると需要以上の供給過剰が招いた結果である。それが世界2位GDPの正体であると吾輩は考えるのである。鬼城マンション・ゴーストタウンの大量の存在は需要が無いのに過剰供給された結果であろう。
狂乱物価とは
1970年代半ば特に1974年(昭和49年)の日本の物価の異常な物価高騰。名付け親は政治家の福田赳夫である。
1972年7月に発足した第1次田中角栄内閣における日本列島改造論は、土地への投機を促す結果となり、積極的財政政策とあいまって急速にインフレーションが進み地価や株価の急騰をもたらしていた(列島改造ブーム)。
さらに1973年(昭和48年)10月6日に勃発した第四次中東戦争に端を発した第一次オイルショックによってもたらされた石油価格高騰により、一段と物価は上昇し「狂乱物価」と呼ばれるようになった。
総合卸売物価は1973年で15.6%、1974年で31.4%上昇し、
消費者物価指数は1973年で11.7%、1974年で23.2%上昇、1974年の実質GDPは-0.2%となった。
春闘での賃上げ率は1973年で20%、1974年で33%上昇した。
狂乱物価は、スミソニアン協定で設定された限度ぎりぎりの円安水準に為替レートを維持するため金融緩和を持続したことが、インフレをもたらした。日本の景気は1973年11月をピークに下降し、1974年には第二次世界大戦後初のマイナス成長になった。
香港に行って驚いた…!「中国経済崩壊」どころか「日本のダメっぷり」を突き付けられた「5年ぶりの出張」、ショッキングな中身
鈴木 貴博 によるストーリー •
香港の物価は日本の2倍…
5年ぶりに香港に出張することになりました。
前は年に2~3回のペースで訪問していたのですが、コロナ禍でリモートに移行して以来、足が遠のいていました。
円安で物価が“高く感じる”だろうということは予想していましたが、実際に現地に出向いてみれば、物価は想像を絶していました。このままでは日本はダメだという危機感を感じることとなったのです。
今回は、そのことを記事にまとめてみたいと思います。
日本ではいま、中国の不動産危機がことさら指摘され、中国経済の崩壊が盛んに報じられていますが、実際に香港に行ってみると現実はまったく違っていました。
さて空港から香港市内に入り、最初に立ち寄ったのが香港ではよく見かけるドラッグストアチェーンのワトソンズでした。
機内に液体を持ち込めないため現地でうがい薬を買うことにしたのですが、日本のドラッグストアなら400円で買えるコンパクトサイズのうがい薬が、現地価格で50香港ドル(1000円)。日本の2倍以上も高いのです。
以前の感覚だと香港の物価は日本よりもやや安いという感じだったのですが、ちゃんと計算をしてみて驚きました。
1香港ドルは、日本円で19.16円(10月23日現在)というのが直近のレートです。これは売りと買いの中心の値で、日本円から香港ドルに換える場合、空港の窓口だと21円を超えます。クレジットカードで支払えば、19.4円ぐらいでしょうか。この記事では1香港ドル20円と換算し、以下では日本円で話を進めていきます。
400円程度の小さなパッケージのうがい薬が香港では1000円もするというのは、軽くめまいがしましたが、仕事を終えたあと街に出てみて、ふたたび軽いショックを受けました。
現地のセブンイレブンでコカ・コーラのペットボトルを買ったのですが、500mlのペットボトル1本の価格が280円だったのです。
香港に出張するとき、わたしは比較的庶民的なお店で食事をすることにしています。街中の清潔なチェーン店で軽食のつもりで中華麺一杯を注文したところ、1400円もしました。また、香港の公共交通機関の料金は、日本人の感覚では非常に安いイメージがあったのですが、今回は地下鉄で6駅乗っただけで300円です。
以前の感覚だと香港の物価は日本の8割程度という感覚だったのに、今では日本の倍となってしまっていたのです。
いつのまにか香港に逆転されていた…!
会社の経費で賄える出張で、そんな細かいことを気にしなくてもいいだろうと言われればその通りですが、食事などでの「リアルな出費」を考えると物価高はなかなかのものです。たとえば、わたしはホテルで飲むコーヒーには牛乳を入れるのですが、普通の商店で200mlの牛乳パックを買うと価格が300円もします。日本で1リットルの牛乳パックを買うよりも高いのです。
今年前半にアメリカ出張をした際にも物価の高さを実感したのですが、それはアメリカだから仕方ないだろうというあきらめがありました。しかし香港がここまで高いとなると「香港よ、おまえもか!」と嘆きたくなります。
そこで、改めて日本と香港の経済力を比較してみました。
今、日本の経済力を一人当たりGDPで表すと米ドルで33,949ドル(日本円で約510万円)で世界31位です。一方の香港はというと実は世界19位にランクアップしていて一人当たりGDPは51,168ドル(約770万円)と日本の1.5倍も金持ちなのです。
ちなみに、わたしが一番頻繁に香港に行っていた2008年と比較してみると、日本の一人当たりGDPは39,992ドルに対して、香港は31,487ドルと日本の8割ほどでした。当時、日本と比べた香港の物価は、一人当たりGDPと同等に2割ほど安かったのです。
さらに時代を遡って、バブルたけなわの1988年で計算すると経済格差は0.4倍と香港は何でも格安な場所でした。当時は、国内旅行よりも香港旅行の方が安いというおかしな時代で、日本人のOLが香港に買い物ツアーに出かけるのがブームになっていました。
「香港はブランド品が安いから」と皆が喜んでいたのですが、経済力が当時は日本の4割ほどしかないと考えるとそれも当然のことですね。
つまり日本と香港の関係は、バブル期は0.4倍、15年前で0.8倍だったのが、今や1.5倍に逆転してしまったということです。
本当の原因は「日本の没落」だった…
香港の物価が高いのは、円安もその一因なのは事実ですが、それだけではありません。
円安の影響は、せいぜい1.3~1.4倍程度。香港の物価高は円安以上に、日本経済が没落した効果の方が大きいのです。香港経済に引き離されたことで、日本人が香港に出かけると物価が日本の倍高いと感じるようになりました。
さて、取引先から「マカオも見ておいた方がいいですよ」とアドバイスしていただいたことを口実に、翌日、日帰りでマカオに出かけることにしました。マカオは香港からフェリーで1時間で行くことができます。
以前のフェリーの料金は片道で1500円ぐらいだったのですが、今回は3500円。やはり値上がりしていました。
日本はここまでヤバかった…!香港・マカオで「円安・物価高」に苦しむ日本人の味方が、やっぱり「ユニクロ」だったという「笑えない話」
香港で受けた「日本没落」のショック…
5年ぶりに香港出張に行ってきました。そこで目の当たりにしたのは、何もかもが日本の2倍の値段という円安と物価高の現実でした。
かつては「香港は安いから」とブランド品を買い占めに出向いていた日本人にとって、いまや香港の物価は目を覆いたくなります。
中国の特別行政区であるマカオは、1999年までポルトガルの植民地だった Photo/gettyimages
それだけではありません。香港と日本の経済力の関係は逆転しています。
日本はすでに一人当たりのGDPで香港の後塵を拝しており、バブル期に日本の4割、15年前に8割ほどだった香港の経済力は、現在1.5倍です。
香港の物価が高いのは円安も一因ですが、それ以上に日本経済が没落した効果の方が大きかったのです。
なお、本稿では1香港ドルを20円の換算で、以下、日本円で話を進めていきます。
「不夜城マカオ」が大復活
さて、取引先の勧めでマカオまで足を延ばすことにした私は、かつては1500円程度だったフェリー料金が3500円となっていることにショックを受けながら、マカオに乗り込みました。
以前は不夜城のように輝いていたマカオがコロナ禍で寂しくなったという噂も聞いていたので、どんな感じかと興味津々だったのですが、到着してみてわかりました。
街はコロナ以前よりもずっとパワーアップし、しかもアフターコロナで以前と同じ賑やかさを取り戻していました。マカオでもインバウンド客が戻ってきているのです。
フェリーターミナルは南側のタイパという港に新しい大規模なターミナルができて、今ではこちらが新しい玄関口となっています。入国手続きを終えて外に出ると、主要ホテルの送迎バスがあるので、その中のベネチアン行きのバスを選びます。
ベネチアンは同じコンセプトのカジノがもともとラスベガスにあって、それがマカオに進出したものですが、マカオの他のカジノと比較してとにかく規模が大きいのが特徴です。
ホテルの中にベネチアを模した運河があって、その運河に沿ってショッピングモールがあるという凝った作りになっています。以前、訪問したときには隣にパリを模したホテルができてエッフェル塔まで建っていたのですが、今回はさらに隣にロンドンを模したホテル群ができていてビッグベンまで建っていました。
マカオはいまだに開発と発展が進行中なのです。
マカオで目撃した「経済力」
そのベネチアンですが、とにかくインバウンド客で混雑しています。
カジノのフロアは、目視した限りでもサッカー場が2面とれるぐらいの広さがあります。その巨大なギャンブル施設が、香港と中国本土からの観光客でとにかく混雑しています。ゆったり座れそうなテーブルを見ると、最低掛け金が2万円と書かれていました。
この掛け金はわたしには無理だと思って、もっとレートが低いルーレットの台に近づくと、それでも最低掛け金が2000円…。そのルーレットは横から入り込むことができないぐらいの人混みになっています。ちなみにこのレートでも熱心にギャンブルを行っている人の多くが、中国本土からの観光客でした。
現地に行ってみて驚いたのですが、香港からマカオに来る観光客と比べて中国本土からの観光客は、ざっと5倍くらいいます。
なぜわかるかというと、帰りのバスに乗る行列の長さがそれくらい違うからです。マカオから中国本土の深センに向かうバスは、フェリーターミナル行きのバスの5倍くらいの台数が稼働していて、長い行列をどんどんさばいて輸送していきます。
どの観光客も、手にたくさんのお土産袋をかかえていて、どれも有名なブランドのロゴが書かれていました。
日本のニュースでは、中国本土は今、不動産バブルが崩壊して経済が停滞している話題で持ちきりですが、それは前年と比べて経済成長率が鈍化しているだけで、そもそもの経済力はどうやら日本よりもはるかに高い様子です。
一方の私はというと、レートの高さからギャンブルに参加をするのはあきらめて、ショッピングモールを散策することにしました。
グローバルなブランドは一通りそろっているのですが、はっきり言ってどれも高くて私は買い物をする気になれませんでした。
日本に帰ればもっと安く買えるだろうと思うので、なおさらほしいものなど出てきません。そうやってぶらぶらしているうちに、ようやく日本人でも買えるお店を見つけました。
ユニクロです。
香港で買えた「安いTシャツ」
今回視察してみてわかったのですが、ユニクロは現地物価の視点で見るととても安いのです。UT(ユニクロTシャツ)が日本だと1500円のところを現地だと1980円です。ユニクロはマカオでも香港でも同じ値段。香港の物価は、いまや日本の倍ですが、ユニクロだけは日本の1.3倍ほどで買えるため、現地ではとても安く感じます。
ちなみに、香港に戻ると無印良品にも訪店してみましたが、日本で2980円で売っているポロシャツの価格が5000円もしました。日本の約1.7倍なので無印良品はどちらかといえば、香港の小売水準に合わせた価格設定になっているようです。
そう考えると、ユニクロの直近の決算が好調だった理由の一端が見えてきます。
ユニクロの発表によれば、好決算の理由は海外売上が好調だったことによるとの説明でしたが、特に中国とアジアが堅調だったということです。その理由を、香港で違う視点で実感できました。
ユニクロもいまや日本では結構高くなってきたのですが、香港のユニクロは現地の目でみれば他のブランドよりもはるかに安くてお買い得。だから混雑しているのです。
円安で見誤った「日本の真の実力」
さて、今回の記事で皆さんにお伝えしたいことは、香港の物価が高いということだけではありません。一番言いたいことは、いつの間にか日本がアジアの中で一番没落しているということです。
なにしろ、かつて日本の0.8倍規模の経済だった香港が、今では繁栄して日本の1.5倍の経済力を持っているのです。マカオもいまでは日本とほぼ同じ。中国は都市部と農村部の経済格差が激しいので単純にひとりあたりGDPで計算すると世界ランキングは低く見えるのですが、マカオに来ている深センのひとたちはどう見ても日本人よりも裕福です。
今回の出張以前、わたしはある勘違いをしていたようです。
それは、アジア各国との経済格差は円安によってそう見えているだけではないかと考えていたことです。経済評論家として恥ずかしいことなのですが、ついこの間まで1ドル=110円だった米ドルとの為替レートが1ドル=150円に近づいたせいで、ドル建てだと日本経済が安く見えてしまうのだと納得していたのです。
しかし、これは大きな誤りでした。
よくよく計算してみるとわかるのですが、1ドル=110円で計算しなおしても、香港のひとりあたりGDPはそれでも日本より大きいのです。
そして冷静に観察し直してみれば、香港でもマカオでも町行くひとたちはショッピングを大いに楽しんでいます。香港の繁華街の飲食店はどこも賑わっています。行列ができていた清潔な鍋料理のチェーン店のメニューを覗いたら、ひとり5000円からと書かれていました。
日本では、しゃぶしゃぶのチェーン店はその半額からという価格設定ですが、それでも日本人は、最近の物価高で生活が苦しいと嘆きます。
一方でインバウンドでアジアからやってくる旅行客は皆、口をそろえて日本は安いと喜んでいるのです。
あらためて一人当たりGDPランキングで日本の位置を確認すると、アジア太平洋地域ではシンガポール、香港が上位に来るだけでなく、カタール、アラブ首長国連邦、オーストラリアも上位に位置します。さらに台湾と韓国、マカオは日本とほぼ同じ位置につけていて、中国でも上海や深センなど大都市の中流層、富裕層の経済力は日本人を上回る状況です。
つまり、もはや日本経済をアジアの盟主と呼んでいいのかどうか怪しくなってきたわけです。
そして日本が安いから日本はアジアでよく売れる。円安になると輸出企業が儲かりますし、今やユニクロも日本を輸出する好調企業の一角となってしまったわけです。
香港に来て本当にわかったこと
日本は世界第三位の経済大国だとは言っても、もはや没落国家に成り下がりつつあるのかもしれません。
少なくともそれを認識しなければ日本経済の復活はないのではないかという思いを私は強く感じました。
そう認識できただけでも香港に来てよかったと思っています。
日本の名目GDP世界4位に転落へ 55年ぶりにドイツに抜かれる ドイツ人に聞くと「インフレ手当に加えて毎年賃上げもあります」
TBS NEWS DIG_Microsoft によるストーリー • 17 時間
経済の規模を示す名目GDP=国内総生産。日本はこれまで世界3位でしたが、今年、55年ぶりにドイツに抜かれて4位に転落する見通しとなりました。背景にあるのは、円安とインフレです。
東京・浅草。きょうも外国人観光客が写真を撮ったり、買い物を楽しんだりしていました。
ドイツ人観光客
「ドイツと比べて交通費や食費などの生活費が(日本は)安い」
観光していたドイツ人から聞こえてきたのは、「日本は安い」という声。大きな要因は円安です。円安の影響は、世界の中での日本経済にも影を落としています。
各国の経済の規模を示す、名目GDP=国内総生産を表したグラフ。日本は2010年に中国に抜かれて世界3位に。それから10年以上、3位でした。しかし、今年はおよそ4兆2300億ドル。人口が日本の3分の2程度のドイツの、およそ4兆4300億ドルに抜かれ、世界4位に転落する見通しです。
各国のGDPをドルに換算して比較しているため、円安で実質的に目減りした形です。
さらに、ドイツでの急激なインフレも影響しました。
ドイツ人観光客
「外食費が30%から40%上がっています。生活に必要なコストがとても上がっています」
ドイツのインフレ率は、今年初めには8%を超えるなど日本よりも大きく、物価上昇がドイツの名目GDPをかさ上げしたと見られます。
ドイツ人観光客
「インフレに対する手当に加えて、毎年賃上げもあります」
そのほか、ドイツでは日本を上回るペースで経済成長や賃上げが進んでいたことも要因です。
西村康稔 経産大臣
「いずれにしても日本の成長力が低下している、低迷しているというのは事実」
西村大臣は「日本の成長力の低下」は事実だと指摘。政府が促す企業の生産性向上や、持続的な賃上げがどこまで実現できるか。世界4位となる今後の日本の経済のゆくえを左右しそうです。
日米半導体協定の貿易戦争の歴史を俯瞰する。
このようにして、日本の半導体は米国の外圧により衰退した。今中国が米国に仕掛けられている半導体規制は、まさに、日本に起きた米国の外圧と同じような貿易戦争が起きているのである。歴史は繰り返されるのである。以下の記録が米国との交渉経緯であり、熾烈な貿易戦争に近い戦いが繰り広げられたのである。そこで、日本は敗退したのであるが、スマホなどの内臓部品は日本の製品が半数近く使用されていることは着目すべきであろう。
1981年、「64キロビットDRAM」のシェアでは、日本企業は合計70%を占め、米国の30%を大きく上回った。
この時、米国の雑誌には「不吉な日本の半導体勝利」と題した記事が出て、米国内で日本の経済力を恐れる人たちが増加、「日本脅威論」が広がっていった。
1983年、日本製半導体が急速にシェアを拡大し、米国半導体メーカの間に危機感が増えていった。
1985年の半導体不況では、多くの米国メーカーが業績が悪くなり半導体事業から撤退していった。
1985年6月、米国半導体工業会(SIA)が、「日本の半導体メーカーが不当に半導体を廉価販売している」と主張して、日本製半導体をダンピング違反として米通商代表部(USTR)に提訴した。
1986年の半導体の売上ランキングにおいては、世界1位がNEC、2位が日立製作所、3位が東芝、4位がMotorola(モトローラ)、5位がTI(テキサスインスツルメンツ)、6位がPhilips、7位が富士通、8位が松下電器産業、9位が三菱電機、10位がIntel(インテル)となり、日本企業の多くの半導体が上位にランクインした。
米国は貿易赤字を抱える原因を「米国は競争力を持ちながら、日本市場の閉鎖性によって対日輸出が増加しない」ことが原因であると主張した。日本政府(当時は通商産業省)との交渉では、米国はスーパー301条の発動をなかば「脅し」として使うことによって、米国の半導体産業を守った。
なお、元々半導体を軍事の一つとして捉えていた米国は、自国の半導体産業の苦境を米国の防衛問題の一つとして認識し、これが米国の態度を硬化させる一因となった。
ミサイルなどの製造には半導体部品が必須であり、その半導体が全て日本製品となることは、アメリカにとって軍事上の脅威であった。
1986年、日米間で締結された「第一次半導体協定」の骨子は以下の2点である。
日本の半導体市場の海外メーカーへの解放
日本の半導体メーカーによるダンピングの防止
さらに、協定には盛り込まれなかったものの、外国製のシェアを5年以内に20%以上にすることを事実上約束したとも取れる秘密書簡(サイドレター)が交換されたが、存在は伏せられた。このサイドレターの20%という数値目標は後の第二次協定にかけての大きな火種となっていく(後述)。
ダンピング防止手段としては、米国政府が日本のメーカーごとに米国が独自に算出した公正市場価格(Fair Market Value:FMV)が新たに設定され、この価格以下で日本のメーカーが半導体を販売するとダンピングとして扱われた。
一方、日本市場での米国企業の半導体のシェアは伸び悩み、米国議会などでは、日本に対しさらに批判が高まった。その後、アメリカ政府は先の「サイドレター」を根拠に通商法301条による制裁を日本に予告した。日本はサイドレターは数値目標ではないと反論したものの、アメリカは日本の言うことを一切聞かず、日米間の交渉は決裂した。
翌1987年4月17日には、ダンピングが継続されていること、対日市場に対するアクセス性の未改善という点で協定が不履行であるとして、アメリカ政府は日本に対して制裁を行なった。その制裁の内容はパソコン、カラーテレビ、電子工具に対して100%の関税率を一方的に日本に課すものであり、アメリカは合計3億ドルの関税引き上げを行った。
この報復は「たすきがけ報復」と形容され、日本政府は関税及び貿易に関する一般協定に違反していると提訴を図ったが、この時、日米間には農産物の問題を抱えていたため、その提訴は回避された。
1988年には外国製半導体の採用を促進する機関として「半導体ユーザー協議会(UCOM)」が日本で設立された。
1989年には、日本の半導体の大手企業30社の売上高合計額は4兆円となった。これはアメリカとの間で半導体摩擦が起きる前と比べて売上高が7年でほぼ2倍に拡大したことになり、「ニッポン半導体」、「日の丸半導体」が世界市場の半分を獲得し、名実ともに世界の頂点に立ったことを世界に知らしめた。
1989年の半導体の売上ランキングでは、世界1位がNEC、2位が東芝、3位が日立製作所、4位がMotorola(モトローラ)、5位が富士通、6位がTI(テキサスインスツルメンツ)、7位が三菱電機、8位がIntel(インテル)、9位が松下電器産業、10位がPhilips、であった。
この事態にアメリカ政府はさらに態度を硬化させ、日本政府に対して不平・不満を言って、日本の半導体のシェア拡大を厳しく批判した。
この協定によって四半期ごとに政府が外国製半導体の市場シェアを調査する「シェア・モニター」が行われることとなった。なお、協定文言上含まれた20%という「数値目標(Numerical Target)」は先述のサイドレターに淵源があるが、外国製半導体のシェアが下がる度に、米国側が日本政府に対し一方的に緊急会合を要求し、目標の「順調な移行」のための「特別措置」も求めることとなった。
後の実証研究によると、日本の半導体メーカーの体力に最も打撃を与えたのは、ダンピング調査よりもこの数値目標だったとされる。今日に至るまで、このサイドレターに発する「数値目標」は日米貿易交渉の失敗の教訓として語り継がれることが多い。
この「第二次半導体協定」の発効によって、1992年には日本の半導体市場における外国製のシェアが20%を超え、世界売上ランキングでもNECが失速し、米国のインテルが1位となった。同時に世界DRAM市場では、韓国のサムスン電子が日本メーカーを抜き、シェア1位となった。
1993年には世界シェアの首位が日本から米国に移った。その一方で、公正市場価格の制約を受けない韓国の半導体が急伸してきた。
1996年の半導体の売上ランキングでは、世界1位がIntel(インテル)、2位がNEC、3位がMotoroka(モトローラ)、4位が日立、5位が東芝、6位がTI(テキサスインスツルメンツ)、7位がSumsung(サムスン電子)、8位が富士通、9位が三菱電機、10位がSGS-Thomson、であった。
1998年には日本の半導体と韓国の半導体の年間売上高が並ぶこととなった。こうして、日本の半導体産業はアメリカ政府の期待通りに弱体化したのである。
1996年の「第二次日米半導体協定」の失効に際しては、失効後の枠組みに関する交渉が民間に委ねられ、日本側の代表として日本電子機械工業会(EIAJ)、アメリカ側の代表として米半導体工業会(SIA)が交渉に臨んだ。交渉は難航したものの、世界半導体会議と主要国政府会合の設立と、外国製半導体シェアを調査するシェア・モニターの廃止が決まった。また、1999年には半導体ユーザー協議会が解散した。
参考文献・参考資料
香港に行って驚いた…!「中国経済崩壊」どころか「日本のダメっぷり」を突き付けられた「5年ぶりの出張」、ショッキングな中身 (msn.com)
日本の名目GDP世界4位に転落へ 55年ぶりにドイツに抜かれる ドイツ人に聞くと「インフレ手当に加えて毎年賃上げもあります」 (msn.com)
豊かさの現在地 経済成長、日本と世界:日本経済新聞 (nikkei.com)
1974年の“狂乱物価”、実は「オイルショック」が原因ではなかった…!(渡辺 努) | マネー現代 | 講談社 (gendai.media)
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