政治講座v325「もう始まっている第二の支那文化大革命:過去の文化大革命中に広西チワン族自治区で虐殺と人肉食人の記録(広西虐殺)がある」
台湾には人食い人種が存在した日本の記録がある。しかし、文化大革命中に虐殺と人間を食っていた事実が記録(広西虐殺)で明らかにされている。
鄧小平が進めた経済改革の弊害(共産党幹部の賄賂・横領蓄財・貧富の格差)を毛沢東時代の文革まで時代を戻しつつあるのが習近平政権である。不動産価格高騰を規制したのが大手不動産の債務不履行問題を引き起こしている。もうすでに倒産しているはずの企業がゾンビ企業としてまだ生き残っている。流石に国営企業の特典を享受している姿を見て、ソ連崩壊のような日が迫っていることを感じているのは吾輩だけであろうか。最近の和服姿に警察官が過剰反応する映像が世界に拡散されている。日本文化の出店まで妨害行為がなされている。支那共産党の独特の嫌がらせである。台湾がらみと共産党内の権力闘争の一環で、氷山の一角かもしれない。或る程度の商業行為に自由が認められて出店したのが、SNSなどの批判で邪魔されている。鄧小平の三顧の礼で松下幸之助氏は日本から多くの企業を誘致した。尖閣諸島での漁船逮捕(民主党時代の菅直人政権)から歯車は狂いだすのである。恩を仇で返す国に転落。信用できない国に格下げ。今、支那は不動産バブル崩壊に伴い、支那の経済も破綻に向かっていると囁かれている。半国営企業であるがために延命措置がされて、ゾンビ企業だらけと推測される。ゾンビは腐敗するまで動き回り病原菌を拡散する姿は武漢ウイルス拡散みたいである。
今回は将来を占う意味でも文化大革命という失敗の運動を紹介する。
皇紀2682年8月20日
さいたま市桜区
政治研究者 田村 司
はじめに
「一事が万事」である。日本の和服姿のお嬢様に大批判など賛否両論があるが、これこそ、毛沢東の実施した文化大革命という人民を誘導した悪弊である。習近平氏は毛沢東時代へと時計の歯車を戻そうとしているのである。
一例として、アリババの馬氏への共産党の処遇である。その辺から話をすすめるが、それ以前から習近平氏による腐敗撲滅運動と称して敵対勢力に対して粛清を繰り広げてきていたのである。
馬氏と支那共産党政府との確執
2017年にはアメリカ・ニューヨークにあるトランプタワーを訪れ、ソフトバンクの孫正義に続いて海外のIT企業経営者としては2人目のドナルド・トランプ次期アメリカ合衆国大統領の会談相手となり、その場で馬は5年間でアメリカ国民100万人の雇用を創出すると約束した。
馬はトランプの側近ジャレッド・クシュナーと親しかったことから実現し、孫の会談の際も仲介を行ったとされる。
しかし、大統領選挙期間中に中国に対して雇用喪失の責任を負わせる発言を繰り返していたトランプと事前承認なしに面会したことで中国政府との軋轢が生じたとされる。
2018年9月10日、アリババ会長の職を翌2019年に退き、張勇(英語版)(ダニエル・チャン)CEOを後継に据えると表明。
その予告どおりに55歳の誕生日である2019年9月10日にアリババグループの会長職を退任し、2020年9月30日にはアリババグループの取締役も退任した。このほか2020年6月25日にはソフトバンクグループの取締役も退任した。
トランプとの独自会談で政府の不興を買った後も、馬は自ら非公式外交と位置づけて、2018年から2020年にかけて国際連合のアントニオ・グテーレス事務総長、ヨルダンのラーニア王妃、マレーシアのマハティール・ビン・モハマド首相などと会談を実施。杭州市の本部にあるアリババ博物館にて海外からの訪問客をもてなした。2018年には中国共産党に入党していることが人民日報で報じられた。
しかし2020年10月24日、上海で開かれた金融機関の幹部や金融監督当局や政府の要人が出席した会合で馬はスピーチを行い、中国政府批判を繰り広げる。
政府による国内の金融規制が技術革新の足かせとなっており、経済成長のためには改革が必要だと指摘したほか、中国の銀行は質屋程度の感覚で営業しているとまで発言。
事前にスピーチの内容を把握した関係者は穏当な内容に変更するよう進言したが馬は聞き入れず、批判を浴びせられた政府当局高官は面子を潰され、アリババグループの規制へと突き進んだ。
その結果、11月5日に上海と香港で予定されていたアリババグループ傘下のアントグループの新規上場が2日前の11月3日に突如延期された。新規株式公開(IPO)が実施されていれば370億ドル(約3兆8300億円)を調達できるはずであった。政府による締め付けはその後も様々な民間セクターに及んだ。
馬氏の近況は?
その後、馬は表舞台から姿を消す。アントグループの上場中止から数週間以内に習近平中国共産党総書記に対する面会を申し出たものの実現せず、2021年には習近平に対し、残りの人生を農村部の教育に捧げる旨を書簡で直接伝えたが、これを習近平が了承したかどうかは不明となっている。
2021年10月、馬が環境問題に関する農業・技術視察のためにスペインのマヨルカ島を訪問したほか、11月初旬には白い防護ガウン姿で植木鉢を持つ馬の写真が香港英字紙サウスチャイナ・モーニング・ポストによって報じられている。アリババ共同創業者の蔡崇信(中国語版)は、2021年6月現在も馬と連絡を毎日とっていることを明かしている。
2022年5月3日には馬が国家分裂や政権転覆を扇動した容疑で当局より捜査されているとの報道が駆け巡り香港市場でのアリババ株価が一時9.4%下落したが、程なくして別人であったことが判明している。
学識者などを近衛兵による辱めをするなど伝統的な文化・知識をことごとく破壊していった。その画像が一部である。寺院などの文化財・僧侶に対しても同じような侮辱的な晒しものにされた。これが、支那共産党が行った悪行非道の一部の文化大革命という破壊活動である。
文革の評価について論ずる。
日本における評価
文化大革命が開始された当初、日本には実態がほとんど伝わっていなかったが、1966年(昭和41年)4月14日、全国人民代表大会常務委員会拡大会議の席上で、郭沫若が「今日の基準からいえば、私が以前書いたものにはいささかの価値もない。すべて焼き尽くすべきである」と、過酷なまでの自己批判をさせられたことが報じられると、川端康成、安部公房、石川淳、三島由紀夫も、連名で抗議声明を発表した。
声明において、
と述べられ、権力の言論への介入を厳しく批判した。
三島の友人の劇作家・評論家の福田恆存も『郭沫若の心中を想ふ』(文藝春秋『福田恆存全集第6巻』に所収)でその言動を「道徳的退廃」として批判したが、郭自身が北京市で行われた文芸会議で「安全地帯にいる者のお気楽な批判だ」と反論している。
1966年に外務省の資料課長(当時)に着任した岡崎久彦によれば、「中国共産党は、ソ連共産党とちがって、革命意識に燃えた同志たちの集まりであり、ソ連型の権力闘争などありえない」と最後の頃まで信じていた外務省の中国専門家たちもついには沈黙せざるをえなくなったといい、当時の中国課長は「毛沢東は、もうわれわれが尊敬していた偉大な毛沢東じゃないんだ」と吐き捨てるように言ったという。北京の通りの名前を「反帝路」、香港を「駆帝城」に変えるなど最初は何のことかさっぱりわからなかったが、1968年10月に劉少奇が失脚したことで毛沢東が復権を画策した権力闘争ではないかとわかったものの、延安時代に結婚を邪魔された旧怨に対する江青の復讐の側面があったことがわかるのには、さらに三年を要したという。
中国国外のメディアがほとんど閉め出される中、朝日新聞社など一部の親中派メディアは、中国国内に残る事が出来た。朝日新聞は、当時の広岡知男社長自らが顔写真つきで一面トップに「中国訪問を終えて」と題した記事を掲載したが、文化大革命の悲惨な実態は全く伝えられず、むしろ礼賛する内容であった。
その後、文化大革命の実態が明るみに出ると、これらの親中派メディア(朝日新聞など)を除いて全否定的な評価が支配的となった。
それまで毛沢東や文化大革命を無条件に礼賛し、論壇や学会を主導してきた安藤彦太郎、新島淳良、菊地昌典、秋岡家栄、菅沼正久、藤村俊郎、西園寺公一らの論者に対し、その責任を問う形で批判が集中している。批判された者はほとんどの場合沈黙を守り、文革終結後も大学教授などの社会的地位を保ち続けた。新島淳良のみ1973年という早い時期に大学を辞任しているが、これは中国から公開しない約束で提供された内部文書を帰国後に公開出版し中国から批判されたからで、文革礼賛の責任をとったのではない。
批判者としては、自由主義の立場に立って、反共産主義、反マルクス主義を唱えた中嶋嶺雄、西義之、辻村明らがおり、中国封じ込め政策にも支持を表明した。一方で、丸山昇、野沢豊らの日本共産党主流派に近いマルクス主義者も「礼賛派」がいかに事実をねじ曲げていたかを厳しく批判した。
評論家の大宅壮一は幼い紅衛兵が支配者に利用されて暴れている様子を「ジャリタレ革命」と批判した。小説家の司馬遼太郎だけは当初文化大革命に肯定的であったが、中華人民共和国を訪れた際、子供に孔子に見立てた人形を破壊させる光景を目の当たりにし転向し反文化大革命、反中国共産党に転じることになる。
現在の中国では、文革時の出身による格差と通じる貧富の格差が極大化、汚職も横行しており、中国国民のフラストレーションが充満しており、習近平体制は汚職撲滅の為の取り締まりを強化しているが、「取り締まりの強化に呼応して、民衆の意識が過激化したらどうなるか。私は文革が絶対に再発しないと言い切る自信はない」として、文革の反省を胸に刻まなければ、と述べている。
南モンゴル出身の楊海英によると、日本のテレビ局スタッフが楊海英のもとを訪ねて来て文革の番組ができないか話し合い、文革の被害者が最も多かったのは内モンゴル自治区と広西チワン族自治区であったことなどの世界の最新の研究成果を伝えたが、そのテレビ局はこれらを採用せず、ディレクターは「中国人が嫌がるような、日中友好の障害となりそうな番組は作らないほうがいい」と社内外の意見に押された結果だと述べた。
これについて楊海英は、「『嫌がる中国人』とは誰のことか。文革の被害者数については諸説あるが、死亡数は2000万人に上るという政府高官の見解が中国国民に共有されている。この膨大な数の被害者家族らは真相の解明を嫌がるどころか、期待している。だが共産党政権は彼らを抑圧して実態解明を嫌がり、その結果真相解明がなされず和解も進まない。内モンゴル自治区での文革により、モンゴル人は日本のスパイや協力者として殺害されたが、日中友好を掲げる日本人は、日中友好の妨げとなる新たな歴史認識問題に飛び火する危険性がある為、中国が満洲やモンゴルを植民地化してきたことへの言及は避けなければならなくなる。中国国民の真相解明への期待を直視することなく、習近平が嫌がる動きを自粛し、抑圧され続けている中国人が覚醒しても日本人は中国を客体化できていないから、文革が歴史にならない」と批判している。また、「過去に文革を称賛した者や日中友好を宗教のように信奉する人たちを、日本では左派や進歩的文化人と表現する。彼らは普段、人権や正義を看板として掲げている。だが文革に関する実証研究に不熱心である事実を見ると、彼らこそが歴史を反省しようとしない修正主義者だ、と指摘しておかねばならない」「日本はまさに思想やイデオロギーの面から中国を直視できない」「自縄自縛の歴史観と狭隘な文革感」と批判している。
後の支那共産党の対応
1981年6月に第11期6中全会で採択された「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議(歴史決議)」では、文化大革命は「毛沢東が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱である」として、完全な誤りであったことが公式に確認された。
毛沢東についても、「七分功、三分過」という鄧小平の発言が党の見解だと受け止められている。一応教科書にも取り上げられるが、中華人民共和国は現在も実質上の言論統制下にあるため「林彪、四人組が共産党と毛沢東を利用した」という記述にとどまった。
2006年5月、文化大革命発動から40周年を迎えたが、中国共産党から「文化大革命に関しては取り上げないように」とマスコミに通達があったために、中華人民共和国内では一切報道されなかった。このように「文化大革命」に関しては中華人民共和国内のマスコミにとって触れてはいけない政治タブーの一つとなった。
2012年3月15日、重慶で文革時代を肯定する「唱紅」運動を展開していた薄熙来が失脚した(薄熙来事件)。これについて、それに先立つ3月14日、全人代閉幕後の記者会見の席上で温家宝首相は、薄を批判するために「文化大革命の過ちと封建的な影響は完全には払拭できていない。政治改革を成功させないと歴史的悲劇を繰り返す恐れもある」と文革を引き合いに出した。
2016年は文革50周年であり、各地で様々なシンポジウムが催されたが、中国では文革に関する研究会は開けず、6月24日から6月26日にかけてカリフォルニア大学リバーサイド校において、宋永毅(中国語版)(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)主催の「中国とマオ主義者の遺産-文革50周年国際シンポジウム」が開催されたが、その席上でペリー・リンク(英語版)(プリンストン大学)は、「アメリカで南北戦争のシンポジウムができないことがあるだろうか。アメリカ人がわざわざ北京に避難して開催するようなことはあり得ない」と、アメリカに傷痕を残した歴史的内戦を例に挙げて、文革に関する研究会が開けない中国の現状を批判した。
2018年11月、文化大革命特有の「楓橋(フェンチャオ)」(村全体が反革命的と見なされた人物を公然と批判する行為)が突全、復活していたことが報じられた。ただし、今回の行為が単発的だったのか、この革命特有の文化的な流儀に対して新たな形で関心が寄せられていることを示唆しているのかは不明である。
毛沢東への個人崇拝
毛沢東に忠誠を捧げる意味から、「毛沢東語録歌」にあわせて踊る「忠の字踊り」が強制され、踊らなかったら列車に乗せてもらえないことがあった。また豚の額の毛を刈りこんで「忠」の字を浮き上がらせる「忠の字豚」が飼育された。
紅衛兵は、毛沢東が学校の休校を命じると、自らの学校を破壊し教師たちに暴行を加えたり教科書を焼き捨てた。その後学校が再開されると、教える人や教材もない有様で、中華人民共和国の発展に大きな障害となった。
リンチの吊るし上げ
「批判闘争大会」と呼ばれる吊し上げは、町の広場やスタジアムで大勢の群衆を集めて行われた。批判される者に対して「反革命分子」のプラカードと三角帽をつけさせ、「ジェット式」という椅子に立たせて上半身を折り曲げる姿勢を数時間とらせた。その間に罵詈雑言を浴びせたり、墨を頭からかけたり、頭髪を半分剃りあげるなど肉体的精神的に痛めつけた。中には長時間の暴行に及ぶこともあった。また、辱めをあたえることもあり、1967年4月、劉少奇夫人の王光美は外国訪問の際に着用した夏用の旗袍を無理やり着せられた上にピンポン玉のネックレスを首からかけさせられ、ブルジョワと非難された。
当時の中華人民共和国の新聞は、毛沢東語録の引用や毛沢東の写真に占領され、その新聞を焚き点けに使ったり尻に敷いたことで吊るし上げられた者が多数いた。
旧文化の破壊
紅衛兵らは旧思想・旧文化の破棄をスローガンとした。そのため、中国最古の仏教寺院である洛陽郊外の白馬寺の一部が破壊されたり、明王朝皇帝の万暦帝の墳墓(定陵、1956年〜1957年発掘)で批判会が開かれ保存されていた万暦帝とその皇后・皇妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却されたりした。
陶磁器や金魚や月餅など、古い歴史を持つ商品の生産や販売まで「旧文化」とされ、職人や関係者は帝国主義者として吊るし上げられた。芸術性よりも実用性が重視され、景徳鎮の窯や浙江省の養魚場は破壊された(一方で毛沢東などの指導者層は景徳鎮産の陶磁器を愛用した)。
古くからのしきたりも廃止されたほか、麻雀や象棋、闘蟋(とうしつ)などの賭博を伴うゲームも禁止された。一方で処女を重視し、婚前交渉で妊娠した女性が自殺に追いこまれたり、多情な女性が軽蔑・攻撃されるなど古い倫理観は残ったと、ユン・チアンは著書で指摘している。
博物館の館員や美術店の店員は、文化財を破壊活動から守るために、文化財に毛沢東の肖像画や語録を貼り付けて回ったという。そうすることで、紅衛兵も破壊活動に出られなくなったという。
少数民族地域の文革
周縁とされた辺境地帯の文革に関する研究は世界各国で盛んとなり、「周縁の文化大革命から文化大革命のフロンティアへ」変わりつつあるのが目下の状況である。政府公文書も含む1次資料による研究成果として、文革の被害者が最も多かったのは広西チワン族自治区と内モンゴル自治区であり、広西では「階級の敵」とされた者が共産党幹部らに食される「革命的食人」が横行、内モンゴルでは中国人によるモンゴル人虐殺が発生した事実が明らかにされた。
ウイグル人とモンゴル人は、近代以降、宗主国の中国からの独立を獲得すべく日本やロシアの協力を得ようとし、両民族は中国からの独立か、ソ連邦内の自治共和国になろうとしたが、それらはヤルタ協定により葬られ、民族自決を目指したウイグル人とモンゴル人の民族主義者達は、1957年の反右派闘争と文革で全員粛清され、中国政府は文革を利用して対日歴史の清算と対ソ連との国際政治を勝ち抜くという戦略を練っていた。
南モンゴル出身の楊海英は、「私が生まれた内モンゴルや新疆ウイグル、チベットなどでの文革は『虐殺』だった。私の周囲でもどんどん罪のない人が死んでいった 」「弾圧は現在も続いており、我々にとっての文革は終わっていない」として、少数民族地域で何が起こったのかは総括されず、「新疆ウイグルでは同化政策が強まり、ウイグル語で教育を受けることを禁止され、中国語を強要」されるなど抑圧が強まり、文革は少数民族地域では民族間紛争として発生したことから「虐殺のような悲劇が再び起こらないようにしなければいけない」「過去の大虐殺を総括しない限り、現在の民族問題の解決にもつながらない」と述べている。
内モンゴル自治区の文革
内モンゴルでは、文革勃発後に内モンゴル人民革命党粛清事件などのジェノサイドが発生し、モンゴル人は自治権を完全に剥奪された。当時の内モンゴルのモンゴル人の人口約150万人のうち、34万6000人が逮捕され、2万7900人が殺害され、12万人が暴力を受けて障害者にされた。文革でモンゴル人に着せられた「罪」は二つあり、「第一の罪」は、1930年代に日本が満洲国を建国し、内蒙古に蒙古聯合自治政府を樹立したのをモンゴル人が協力したという「対日協力」であり、「第二の罪」は、敗戦により日本が内蒙古から撤退した後にモンゴル人は中国に属することを望まず、モンゴル人民共和国との内外モンゴル統一を要求したことである。この二つの「罪」により、漢人入植者は「民族分裂の歴史」だと断じて34万人を逮捕し、2万7000人以上を大量虐殺した。
北京在住の作家の啓之(元北京電影学院)は、文革中の内モンゴル自治区で行われたモンゴル人大量虐殺事件を、漢民族による抑圧がモンゴル人虐殺の直接的原因だと指摘、モンゴル人と漢民族との和解が成立していないのは、真相究明が遅々として進んでいないこと、民族間紛争をもたらした漢民族に問題を解決しようとする真摯な態度が欠如し、責任を回避してきたことを挙げている[77]。
南モンゴル出身の楊海英によると、内モンゴルでは文化大革命が勃発すると、漢人たちはモンゴル人に対し、真っ赤に焼いた鉄棒を肛門に入れる、鉄釘を頭に打ち込む、モンゴル人女性のズボンを脱がせて、縄でその陰部をノコギリのように繰り返し引く、妊娠中の女性の胎内に手を入れて、その胎児を子宮から引っ張り出すなどの凄惨な性的暴行・拷問・殺戮を加えた。
内モンゴルのジャーナリストや研究者たちによると、当時内モンゴルに居住していた150万人弱のモンゴル人のうち、文革による犠牲者は30万人に達し、その後、内モンゴルではモンゴル人の人口250万人に対して、漢人の入植者は3000万人に激増した。楊海英は、事件をきっかけに「19世紀以降に満洲、モンゴル、新疆へと、彼ら漢人(中国人)が領土拡張してきた方法」により、内モンゴルは植民地開拓され、「内モンゴル自治区ではモンゴル人の人口がたったの250万人にとどまり、あとから入植してきた中国人はいつの間にか3000万人にも膨れあがり、その地位が完全に逆転してしまいました。中国人による植民地開拓のプロセスは基本的に同じです」と述べている。
アルタンデレヘイ(中国語: 阿拉騰徳力海)は、文革時のモンゴル人ジェノサイドで「50種以上の拷問」が考案されたことを紹介しており、「中国共産党はまず、ウランフの例でわかるようにモンゴル人の指導者と知識人たちを狙った。文字を読める人は殆ど生き残れなかったと言われるほどの粛清が行われた。50種類以上の拷問が考案され、実行された。たとえば、真赤に焼いた棍棒で内臓が見えるまで腹部を焼き、穴をあける。牛皮の鞭に鉄線をつけて殴る。傷口に塩を塗り込み、熱湯をかける。太い鉄線を頭部に巻いて、頭部が破裂するまでペンチで締め上げる。真赤に焼いた鉄のショベルを、縛りあげた人の頭部に押しつけ焼き殺す。『実録』には悪夢にうなされそうな具体例が詰まっている。女性や子どもへの拷問、殺戮の事例も限りがない。中国共産党の所業はまさに悪魔の仕業である」と批判している。
文革終息後、中国政府はジェノサイドをおこなった漢人入植者を処罰しなかったことから、1981年にモンゴル人大学生による大規模な抗議活動がおこなわれたが、当局の厳しい弾圧に遭い、抗議活動を支援したモンゴル人幹部や文革を生き延びた人々は全員粛清され、モンゴル人大学生も辺鄙な地域へ追放されて公民権を剥奪された。
広西チワン族自治区の文革
文革は、北京において、南モンゴルにおいて、チベットにおいて、広西においては相違があり、宋永毅(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)が発掘した文革終了後、広西の党委員会組織が10万人の人員と4年をかけて、「文革遺留問題」処理にあたり、党委員会が作成した処理についての上級機関への報告書「広西文革檔案資料」によると、広西では、文革期に約20万の冤罪、約8万9000人の不正常な死、行方不明2万人、名前不明の死者3万人以上、少なくとも15万人が虐殺され、民間の調査では20万人以上が殺害されたという。
資料によると、文革中、302人が殺害後に心臓・肝臓を摘出、食人が横行していたことが明かされている。資料により、名前が判明している殺人者は200人以上、うち6割が武装部長、民兵指揮員、民兵及び幹部であり、食人を働いた84%は中国共産党員・幹部であり、広西の5万人近い共産党員が虐殺、殺人に加担しており、文革の混乱に乗じた民衆の事件ではなく、中国共産党が組織的に行った虐殺・食人であることが裏付けられている。
武宣県の報告には以下の記述がある。
「(1968年)6月17日、武宣に市の立つ日、蔡朝成、劉鳳桂らは湯展輝を引きずりながら町を行進し、新華書店前まで連れていくと、龍基が歩銃で湯を打ち据えた。王春栄は刃渡り五寸の刀をもって腹をさばいて、心臓と肝臓を取り出すと、野次馬が蜂のように群がって、それぞれ肉を切り取って奪った。肉が切り取られた後、ある老婆が生殖器を切り取り、県の服飾品加工工場の会計の黄恩范が大腿部を一本切り落として、職場に持ち帰り、工場職員仲間の鐘桂華とともに骨から肉を削り落として煮物にして食べた。当時、この残虐な現場にいた県革命委員会副主任、県武装部副部長の厳玉林は、この暴虐行為を目の当たりにしても一言も発さなかった。当時、招集された四級幹部会で、会議参加者のそれぞれの代表は人肉を食べ、非常な悪影響を与えていた」
欽州の報告書には以下の記述がある。 「1968年9月7日から17日にかけて、上思県革命委員会が四級幹部会を招集し、上思中学で、群衆による公開殺人大会を開いた。このとき幹部、群衆12人が殺害されたが、一部の死者は腹をさばかれ肝臓を取り出され、県革命委員会の食堂で煮て食べられた。食人には県の幹部らが参加した。
同県の思陽公社武装部長・王昭騰は大隊に殺人を命令し、その晩、鄧雁雄を殺害、肝臓を取り出して煮て、部下らと一緒に食べた。彼は部下らに、人の肝臓を食べると、大胆になると言って勧めた。翌日、王昭騰は、さらに四人殺し肝臓を取り出し、二、三の生産隊ごとで、一人分の肝臓を食べるように命令を出した」
宋永毅は、広西では食人以外に、軍の師団が組織的に民衆に対して殲滅を行う、女性に対する性暴力が行われたことを指摘している。広西の農村では、父親や夫を殺害して妻や娘を凌辱する行為が常態化、資料によると、225事件1000人以上の被害者が記録されている。資料には、「1968年4月25日、浦北県北通公社で、大隊が四度にわたり24人を殺害。肝臓を取り出して煮て酒とともに食べた。この公社では180人が殺害された。…主犯の劉維秀、劉家錦らは、劉政堅を殴り殺したのち、17歳に満たないその娘に対し輪姦後、殴り殺し、肝臓と乳房、陰部を切り取った」という記述がある。
父親や夫を殺害後、犠牲者の妻や娘が、殺害当事者の妻にされることがあり、それを「改嫁」という。資料には、「浦北県北通公社の旱田大隊革命委員会主任は計画的に22人を殺害、殺害前に、犠牲者の財産を調べており、殺害後にその妻と娘四人が幹部らに嫁がされた。その時、改嫁証明費、出嫁費用として894元が支払われた」という記述がある。
宋永毅は、広西の文革の特徴として以下の4点を挙げている。
地方政府が意図的に作り出した無政府状態
高度な組織化による虐殺
虐殺の目的が階級の敵の生命を絶つことから、殺戮に伴う官能と快楽を得ることになっている
一族郎党を絶滅させるという方式が採られているが、これはその一族の財産(女性も含む)を奪うという動機が潜んでいる
宋永毅は、文革とは「共産党が文革以前に実施した17年間の政策の結果である」と証言しており、これに対して福島香織は、文革についてはタブーが多く、その誤りが検証されなければ、中国共産党に対する批判が許されない現在の中国では、再度大虐殺を伴う動乱が起きても不思議ではないと示唆している。
チベット自治区の文革
チベット人作家のツェリン・オーセルは、文革を「シヤアジェ(殺劫)」と表現、チベットではもともと近代的な「革命」を指す言葉もなかったが、中国共産党の侵略を受けて、新たに「サルジェ」という語が創設され、中国人がもたらした「革命」を意味する「サルジェ」は、漢語の「殺劫」と類似した発音であり、「人類殺劫」となり、文革の本質を表した概念として定着していった。
中国は「ヨーロッパの中世よりも暗黒な政教一致の農奴制からチベット人民を解放した」と宣言したが、それを認めないダライ・ラマは「叛乱」、文革中も「解放」されたチベット人は度々武装蜂起したが、それらは造反派と保守派の対立による武闘か或いは再叛乱なのかをめぐり論争があるが、オーセルは「共産党のいう『革命』や『解放』は、雪の国を根底から揺り動かし、その大地に深く根づいたチベット民族のルーツ(根)を根こそぎ掘り返し、伝統、文化、信仰、価値などを喪失させ、貧困に突き落とした。
そして、抵抗すれば残酷に鎮圧した。かくしてチベット人は物質的にも精神的にも追い詰められ、『再叛乱』を起こさざるを得なくなった」として、文革中のチベット人の抵抗をダライ・ラマに続く「再叛乱」と位置づけ、「チベットの近代史において最も暗黒の時期であった文革期における光輝であった」と述べている。楊海英は、「『解放者』からの抑圧に対して武装蜂起し、そしてその蜂起が『再叛乱』だと解釈されて鎮圧された歴史を民族の近現代史における『光輝』と呼んだところに、チベット人にとっての文革の悲劇性が認められるのではなかろうか」と評している。
参考文献・参考資料
5分で分かる文化大革命!現在の中国の起点となった革命とは? | ホンシェルジュ (honcierge.jp)
文化大革命とは 毛沢東の権力闘争: 日本経済新聞 (nikkei.com)
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