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やさしい物理講座ⅴ126「時空の概念の誤謬」

 高学歴者の物理学者に多い現象であるが、「裸の王様」のような、物理学者が多い。我々一般人にとっては常識から逸脱している理論を得意満面に語る姿が余りにも滑稽であり、「裸の王様」に見えるのである。時間と空間は人間の定義によるものであることに気が付かないで、重力は空間を歪めるとか速度が増すとものの長さが短くなるとか、重力は時間を遅くするとかを真顔で語るのである。現実の実験からの現象解説を数学という仮定の学問で解説するから話がややこしくなり空想に近い理論となるのである。
今回は科学の基本に戻って物事を考えるべきである理由を述べる。

     皇紀2684年9月12日
     さいたま市桜区
     理論物理研究者 田村 司

ちょっと、脱線するが、哲学にデカルトのコギト命題がある。「Cogito ergo sum」我思う、故に我在り
全てについて疑うべし(De omnibus dubitandum。カール・マルクスの言葉)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。
「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。
“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。
 科学とは「疑問・疑い」をもって取り組むべきものである。既存の正しいとされている「相対性理論」もその領域の範疇にあるのである。

科学の基本の「定義」

定義(ていぎ)は、ある言葉の正確な意味や用法について、人々の間で共通認識を定めるよう行われる作業。語義。一般的にそれは「○○とは・・・・・である」という言い換えの形で表現される。

そして、人類の量の観念数の観念と並行して発達してきた。それは、度量衡制度であるが、度量衡は、租税貨幣・土地制度などの確立のため、計量に用いる長さ(度)・体積(量)・重さ(衡)の基準を定めた制度である。
計量は客観的な基準がなければ困難であり、計量の基準には時間的普遍性空間的不変性再現性がなければならない。

時間と空間の起源

現代宇宙論の欠点は、時間と空間がどこから生まれてきたかを説明できていないことだ。この難題を解決しないかぎり、物理学は完成しないと多くの研究者が考えている。吾輩はこれは愚問であると考える。何故ならば「時間と空間」を物質と同じように捉えているところに理論に誤謬を発生させる原因である。人間が勝手に分かりやすいように定義して、その定義に基づいて時間を計測するものが時計であり、量を計るのが計量器(メジャー)であり、長さを計るのが物差しである。
常識的に考えてみて欲しいものである。
物体が速度を増すごとに重たくなる、長さが短くなる、時間が遅くなると言われる特殊相対性理論がおかしいことが直感的に分かるはずである。なぜ、間違えた理論になったのかというと、そのもとになる実験とはマイケルソン=モーリー実験であり、その実験結果をもとに論じたのである。
しかし、仮説が120年ぶりに吾輩により論破されたのである。光(電磁波)は、物質に吸収・物質から発生するときは粒子として振る舞うが、空間を伝播するときは波として振る舞うのである。これを光の2重性と言われる。

アインシュタインを有名にした「光子時計」の思考実験を見直してみる。そうすると明らかに「思考実験」に誤謬があることが分る。

「光子時計」の思考実験の再検証

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