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小説 小説家

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記事一覧

小説『小説家』 第六話

第六話

『男は焦りとは無縁だった。』
「おっちゃん、ほんまにこの一節を書いた人なん?
 めっちゃ焦ってるやん」

そう冷ややかな目を向ける小学3年生の少年は一郎のファンである。

『穴掘る男』の連載が始まって半年が経った。
相変わらず誰が読んでいるのかわからないその文芸誌に載り続けることは、日常とは切り離されたところにあるものだった。
そんな時に、まさか「顔バレ」を経験するとは、微塵も思っていな

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小説『小説家』 第五話

第五話

『俺は風呂屋なんだ。毎日、風呂を洗って、番頭に立って、風呂を流して、店を閉める。それが俺だ。』
「あんたのこの言葉がおれを小説家にしたんだ」

行きつけの銭湯で、一郎はおっちゃんに語りかける。
「おれは小説家なんだ。起きて文字を書いて書いて書き続けるんだとあの時、、、」
「はよ、はいれよ」
おっちゃんは冷たくあしらう。

番台の向こうに通った女子大生をチラチラ見ていたことがバレていたよう

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小説『小説家』 第四話

第四話

『いきつけの喫茶店のマスターに拾われた男は、コーヒーの香りに顔を顰めた』
「この一節はおれだよ。
こいつはいっつも営業後に来るんだよ。
このコーヒー自慢のおれの店にだよ。コーヒーの香りが苦手だからってさ。
こいつとは昔からの腐れ縁さ。おれも昔は小説なんかを書いたりしていたんだ。
こいつはこの店に、メロンクリームソーダとナポリタンを目当てに営業後にくるんだ。

まぁ、家族みたいなもんだね。

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小説『小説家』 第三話

第三話

『男は寡黙で、男の中の時間は周りとは違っているように思えた。どんな喧騒の中にいても、静かに立っているのだ。』
「私、面白かったんですよ。
こんな一節を書いた人が、楽しそうに一人で話しているんですもの。
嫌な気持ちなんてぜんぜんないですよ! むしろ、かわいいって感じ?
あ、すいません。先生にかわいいだなんて失礼ですよね。でも私、部屋に帰ってすっごく嬉しくなったんです。あの本を書いたのはこの

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小説『小説家』 第二話

第二話

『誰の心にも森がある。森には獣と宝が潜む。だから俺は奥に行く。』
「僕の世界はですね。この一言で変わったんですよ。目の前に見えている景色が変わったんですよ。色づいたんです。いや、色は元々もあったんですけど、輝きが変わったんですよ。ちょうどあれです、iPhoneの彩度を上げた時みたいな感じですよ。
そんな一言のために、物語はあるんです。誰かの世界を壊すために。その一言で気づき、開けて、癒さ

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小説『小説家』 第一話

第一話

『男は山の中に虎を喰らう。』
「あのね、物語ってのはこれでもう始まるわけ。ここから男の人生に沿って言葉にしていくだけ。
難しい言葉も誰かの小説の知識も、あったらいいかもしれないけど、ないほうがいいこともあるの、いや、その方が多いかもしれん。
凝った設定もどんでん返しもあったほうがいいかもしれない。でもないほうがいいこともあるの。
世界を変えるって言うけどさ、そりゃ男はみんな小さい頃に思っ

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