イラストエッセイ「私家版パンセ」0075 「個人と社会の関係について」20250116
個人の自由が大切か、集団の秩序が大切かという問題があります。もっと簡単に言うと、個人と社会とどちらが大切か、という問題。
これは本当に大きな問題で、もしかしたら人類の最大の問題と言えるかも知れません。
集団派の人は、集団あっての個人なのだから、集団の都合は個人の自由に優先すると主張します。
個人派の人は、そもそも個人が幸せになるための手段として集団があるのであって、集団が個人を抑圧するのは本末転倒だと考えます。
ぼくは両者とも正しいと思います。
人間は、個人と社会のバランスの中に生きるしかないんです。
それはしばしば矛盾を含みます。対立を含みます。
どちらが正しいということはありません。集団主義的な考えも、個人主義的な考えも両方必要なんです。その矛盾や対立の中にしか人間の生はあり得ない。これがぼくたち人間の現実なんです。
人間はあまりにも社会的な存在です。
社会がなければ、個人は存在しえない。
これは正しい。
そもそも、言語を習得するところから、社会、社会的価値観は個人の中に入ってきます。というか、人間は生まれながらに人間なのではなく、言葉や文化、社会的約束を習得することで初めて人間になる、と言っても過言ではありません。
哺乳動物の中で、人間だけが一人で出産できません。(例外はありますけれど)
社会、すなわち共同するということは人間にとってはマンモスの巨体、サーベルタイガーの牙、ライオンの爪、鳥の羽みたいなもので、生存するために必要なものです。
若者は良く、「俺は一人で生きてゆく」みたいなことを言いますけれど、他者の存在がなければ、ごはんも食べられなければ道も歩けず、水も飲めません。何より言葉が話せません。
人のためになることを喜びと感じるのも、承認されて嬉しいのも、すべて社会的動物である人間にとって必要な機能として進化してきたものです。
自分は世の中に必要とされていないんじゃないか。自分は人と違うんじゃないか。他人の目が気になる。これらの悩みも全て、人間が本能として持っている社会性と自我との葛藤です。
戦争中、勇気をもって反対しなかったのはアカン、と言う人もいますけれど、あの社会状況で一人戦争反対を唱えることはほとんど不可能です。それは、コロナ禍の時にマスクをつけないでいるのと同じぐらい難しいことだったのです。
日本は同調圧力の強い社会ですが、どんな社会にも多かれ少なかれ同調圧力は存在し、これも社会的生物として人間が進化させてきた本能の一つです。
わたしたちは、社会という巨大な船に乗っています。その船の片隅に座って一人になることはできても、巨大な船から降りることはできません。ましてその進む方向を変えることもできません。
こんな風にぼくたち人間は、「あまりにも社会的な」生き物なのです。
しかし同時にわたしたちは個人の自由意志を持っています。
人権と言ってもいい。
そして憲法は個人の自由権を認めています。
信教の自由、学問の自由、思想・言論の自由、集会・結社の自由、職業選択の自由、居住・移転の自由など。
民主主義的な社会とは、このような自由な人間が一緒に暮らすために、最低限守らなければならない約束を法律として定めています。法律は個人の自由を制約するものですが、これがなければより多くの人たちが自由に生きられなくなる。そもそも一緒に暮らすことが不可能になってしまう。
わたしたちが社会、そして社会を維持するために必要なものとして、不完全ではあっても「権力」を認めるのは、畢竟自分の自由を守るため、というのが民主主義社会の基本です。
社会的であることが本能のレベルであるとすると、自由権は理性によって獲得されたものと考えることができると思います。
女性の自由も含め、自由権は数百万年かけて作られた本能に対して、文明が獲得してきた考え方だとも言えるでしょう。
多様性の問題も同様です。社会は本能的に同調圧力の強いものであり、多様性を認めるのは知的な仕事なのだと思います。
どうしようもなく社会的存在である人間。その人間が、個人の自由をも大切にしようとした時に、どういう社会の在り方が良いのか。
この問題に正解はありません。
個人の自由はできるだけ少ない方が良いと考える社会もあるし、個人の自由をできるだけ大きくしようとする社会もある。
ただ一つ言えることは、個人の自由を完全に認めない社会はいつか崩壊するし、個人の自由を一切制限しない社会では、そもそも社会が成り立ちません。
どういう社会であるべきか、なかなか議論がかみ合わないことがあります。
たとえば、日の丸と君が代を尊重しようとする人たちと、反対する人たち。尊重派は、反対派を非国民のように考えます。しかし反対派の人たちも決して日本社会を憎んでいる訳ではなく、信教・思想の自由が認められている日本を愛しているんですよね。
また、天皇制も「家」も、日本の伝統的価値観を全て前近代的なものとして否定する人たちがありますが、この人たちは人間が「社会的な生き物」であることをあまりにも無視していると思います。
対立の原因は、自分が考える社会と個人のありかたが普遍的なものであるという思い込みがあるからかも知れません。
社会と個人の関係は、時代によっても地域によっても非常に流動的なものであって正解はない。
そこから話を始めることが大切なのだと思います。
そして自分たちの社会がどうあるべきか、ということは決して他人任せにせず、非効率であっても非生産的であってもコスパ、タイパが悪くても、自部で考え話し合ってゆかなければならないものなんだと思うのです。
私家版パンセとは
ぼくは5年間ビール会社のサラリーマン生活を送り、その後30年間、キリスト教主義の私立高校で教師として過ごしました。多様で個性的な生徒と出会い、向き合う中で、たくさんのことを学ばせていただきました。そんな小さな学びの断片をご紹介します。これらの言葉がほんの少しでも誰かの力になれたら幸いです。