
イラストエッセイ「私家版パンセ」0056 「プロテスタントとカトリックの違い」 20241009
今日はちょっとマニアックなお話。
世界の人口の約3分の1を占めるキリスト教徒。一方、日本では人口の1%のマイノリティーです。
今日は、キリスト教の宗派、カトリックとプロテスタントの違いについて簡単に解説したいと思います。
キリスト教会には、大きく分けてプロテスタントとカトリックがあります。
カトリックはキリストの死後、使途ペテロを指導者とした教会から脈々と続く、最も古い宗派です。ローマ法王は、ペテロの後継者という位置づけです。
ローマ法王を頂点として、その下に枢機卿、司教、司祭という階級があります。ぼくたちが普通神父さんと呼んでいるのは、司祭のことです。司祭は妻帯が認められていません。
カトリックでは、礼拝をミサと呼びます。プロテスタントでは、パンと葡萄酒はキリストの最後の晩餐の象徴として行われますが、カトリックでは、ミサの中の儀式によって、本当にパンがキリストの体に、葡萄酒はキリストの血に変化すると考えます。(聖体変化)カトリックの礼拝堂(御御堂と呼びます)には、御聖体が安置されているので、場そのものが聖なるものとされています。
キリスト教の聖典は聖書です。聖書は旧約聖書と新約聖書(福音書)の二つから成り立っています。(ちなみに旧約聖書は、ユダヤ教、イスラム教の聖典でもあります。)
カトリックは、聖書を教義の中心とすることは言うまでもありませんが、長い教会の伝統にも権威を認めています。聖母マリアの崇敬は、プロテスタントにはない、カトリック独特のものです。聖母の特別な地位は、聖書には根拠はなく、教会の伝統の中で生まれてきたものです。そしてさまざまな聖人がいるのもカトリックの特徴です。聖人はちょうど日本の神々のように、特別な守備範囲を持っています。例えば、聖クリストファーは交通安全の守護聖者であり、サンタクロースとも呼ばれる聖ニコラウスは学問の守護聖者でもあります。国にも保護聖者があります。アイルランドは聖パトリック、スコットランドは聖ゲオルグを保護聖者にしています。聖人たちがどんな人で、どのような図像で描かれるかは、聖人伝を読めば分かります。最も有名な聖人伝は、ヤコブス・デ・ウォラギネの「黄金伝説」で、その中の聖クリストファーの伝説は、芥川龍之介が「きりひとほろ上人伝」の名で翻案しています。
カトリックは教会の一致を重視します。ですから、教義は公会議によって定められ、異論や分派活動は許されません。司祭は司教に、司教は枢機卿に、枢機卿は法王に服従することが求められます。
カトリックの十字架にはイエスキリストがはりつけになっていますが、プロテスタントの十字架にはキリストの姿はありません。
神父に告解(罪の告白)をすれば許されるのは、カトリックです。
修道士、シスターはカトリックです。
プロテスタントは、16世紀初頭、ルターの宗教改革から始まりました。
カトリックが世俗の権力と癒着して堕落したことを批判し、教会の伝統ではなく、聖書のみを根拠にして新しい信仰の在り方を始めたのでした。
社会学的に見ると、カトリックが封建制度に対応するような組織であったことに対して、新興の独立自営の市民階級が、自分たちにふさわしい信仰のありかたを求めたと考えられます。プロテスタント教会は、市民階級の教会にふさわしく、民主的な運営がなされています。
「聖書のみ」に権威を認める、というのがプロテスタントの特徴です。カトリックでは、聖書はラテン語版のみが聖典として認められていました。封建時代の農民はほぼ文盲でしたので、聖書を読む必要がなく、むしろ聖人伝や、絵画、像の方が信仰の対象になりやすかったこともあります。
一方プロテスタントは、自ら学ぶ独立した市民ですので、聖書が翻訳され、聖書を自分で読むことに価値を置きました。ルターは宗教改革者であるのみならず、聖書をドイツ語に翻訳したことも彼の大きな功績です。このルター訳聖書は、近代ドイツ語の基礎になったとも言われています。
プロテスタントは一つの宗派ではありません。無数の宗派に分かれています。それは、聖書の解釈が信徒にゆだねられた結果、無数の解釈が存在するようになったからです。
おおざっぱに言うと、プロテスタントは聖書を文字通り真実だとして信仰する福音派(原理主義)と、神の霊感を受けたものの時代の制約を受けた人間が書いた文書とみなして、その真意を解釈するリベラル派の両極があり、それぞれの宗派はその間に位置しているとぼくは思います。
ちなみに、カトリックの信仰は、基本的には福音派に近いと思いますが、社会的問題と向き合う大組織ですので、リベラルな側面も持っていると思います。
日本の場合、第二次世界大戦中に、プロテスタントがあまりにも宗派が多く管理が面倒だったので、国が「日本基督教団」という団体を作って一つにまとめたという経緯があります。戦後、いくつかの宗派は教団を離脱しましたが、そのまま残った教会も多いです。
プロテスタントでは神父と言わずに、牧師さんと呼びます。イラストのマザー・テレサはカトリックの修道女です。
カトリック信徒は世界に約14億人。日本では43万人。世界に約国で言うと、フランス、イタリア、スペイン、ドイツ南部、アイルランド、中南米はカトリック国。プロテスタント人口は約9億。日本では約60万人。イギリス、ドイツ北部、北欧諸国はプロテスタント国と言われていますが、もちろん、プロテスタント国にもカトリック教徒はいますし、その逆もあります。
日本のキリスト教は、学校教育で顕著な働きをしています。
日本のカトリックの大学は、上智大学。
同志社大学は、プロテスタントの会衆派。
青山学院大学は、プロテスタントのメソジスト派。
立教大学は、プロテスタントの聖公会(イギリス国教会)。
日本人では、大平元首相はプロテスタント。
麻生太郎元首相はカトリック。
石破茂首相はプロテスタント。
旧五千円札の新渡戸稲造さんはプロテスタント。
将棋の加藤一二三さんはカトリックです。
一般教養としてプロテスタントとカトリックの違いは以上になります。
ここから先はさらにマニアックな内容ですから、興味のある方だけどうぞ。
カトリックには聖人が大勢いると申し上げました。一方のプロテスタントには聖人はおりません。「聖書のみ」を標榜するプロテスタントは人間を崇拝することはありません。厳密に言うと、聖人は崇拝ではなく崇敬するものです。聖人に祈るのではなく、聖人の代祷を願っているという形をとります。代祷とは、神様に取りなしをお願いするという意味です。しかし実際は崇拝しているのと大差はありません。
それではプロテスタントには本当に聖人はいないのでしょうか?
とあるプロテスタントの牧師の説教を聞いたことがあります。その人は一時間の説教の中で、内村鑑三の名を数十回語られました。これはイエス・キリストを言及する回数を圧倒的に凌駕していました。
信仰の先輩を身近に感じるのは人間の本能的な傾きなのでしょう。カトリックがそれを制度化しているのに対して、プロテスタントではその性向が無意識に追いやられていると思われます。
ぼくの私見では、何事も無意識に追いやられ、抑圧された感情はエネルギーを増し、コントロールが利かなくなるから注意が必要です。無意識の性向はむしろ制度化してなだめてやった方が扱いやすいと思います。カトリックにはカルトはありませんが、プロテスタント系のカルトはたくさんあり、そこでは個人崇拝が行われることもあります。
同様に女性性もプロテスタントとカトリックでは異なっています。カトリックに於いて女性性はマリアが担い、テオトコス(神の母)という最高の待遇を受けて制度化されています。プロテスタントにおいては、父権の強い一神教の伝統を忠実に守っていますから、フェミニズム神学のような形で補償する必要があるのだと思います。
神話的に「受容」は母性、「厳格さ」は父性とみなされています。カトリックのイエスはプロテスタントのイエスより厳格なようです。それは母性をマリアが担っているからです。一方プロテスタントのイエスは母性にあふれています。これはマリアを持たないプロテスタントにおいて、イエスが父性と母性の両方を担う必要があるからだと思います。

私家版パンセとは
ぼくは5年間ビール会社のサラリーマン生活を送り、その後30年間、キリスト教主義の私立高校で教師として過ごしました。
多様で個性的な生徒と出会い、向き合う中で、たくさんのことを学ばせていただきました。
そんな小さな学びの断片をご紹介します。
これらの言葉がほんの少しでも誰かの力になれたら幸いです。