20241021 イラストエッセイ「私家版パンセ」0059 能力は遺伝か環境か 教育論
人間の能力は遺伝か、それとも後天的な環境によって作られるのか?
学校の先生をしていると、これは大きな問題なのです。学校としては後天的な環境の影響を過大評価したい。だって、ほぼ遺伝的要素で決まっているとしたら、教育の意味がなくなってしまいますから。
でも、三十年間教師をやってきて、数千人の子供たちと出会った経験から言うと、生まれつき足が速い子がいるように、物覚えが速い子がいて遅い子もいました。素質、というものは確かに存在します。
橘玲さんは、能力は遺伝的要素が大きいと言います。
足が速い子がいるように、勉強ができる子がいて、それは生まれながらの素養が大きい。
それなのに、教育界では勉強は努力すればだれでもできるようになるという建前を崩そうとしない。
その結果、勉強ができない子は「怠けている」と責められ、社会で成功できなくても、自己責任だとされてしまう。
人種や性別、障害などで人を差別することは許されない、というのは社会通念になっています。それは自分ではどうしようもないことだからです。
ところが容姿や能力は、これも遺伝的要素が大きく自分ではどうしようもないものなのに、この差別は社会は容認している。これはおかしい、というのが橘玲さんの主張だと思います。
ぼくは人間とは種のようなものだと思います。それがリンゴの種であれば、リンゴの実をつける。もちろん適切に育てられなければ決して結実することはなく、ただの種で終わってしまいます。しかしリンゴの木は決して梨の実をならせることはありません。
人は本来なるべきものに、なるべくしてなってゆく。
ユングの言葉を借りれば、個性化の過程、自己実現ということです。教師は自己実現の手助けをするために、土壌を整え、肥料をやり、時には剪定します。
アインシュタインの言葉とされるものに、こんな言葉があります。
「全ての存在は天才である。しかし魚を飛ぶ能力で評価すると、その魚は一生自分をバカだと思うようになる。」
能力というものは遺伝的な要素が大きい。これは本当だと思います。
ですから能力による差別は、人種や性別による差別同様許されないと思います。
同時に、能力が多様であることも忘れてはならなりません。
アインシュタインに従うならば、誰もが天才なのです。
単に「能力が低い」という人間は存在しません。魚を飛ぶ能力で測っているだけなのです。
その人の能力の種類に応じて教育的援助が与えられるということが、学校が目指すべき方向だと思います。ぼくの理想は、黒柳徹子さんの通ったトモエ学園です。
そして社会が、多様な能力を評価できるような、寛容で懐の広いものであることが、何より肝心だと思います。